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2008/12/26

前向きの「批判」

 最近ますますカタカナ言葉が増えている。カタカナ言葉が増える原因は、外国の言葉の概念にぴったり合う日本語をどうしても見つけられないことなのだろう。言葉はそれを使っている人々の文化と密接にかかわっている。どの国の言葉にも、どうしても外国語ではうまく訳すことができない言葉というものがあるものだ。だから私は、むやみに「カタカナ言葉はだめだ」というつもりはない。ただ、安易にカタカナ言葉を増やしていくと、わかったつもりで本当は分かっていないたくさんの人々を生み、分かっていないのに、わかったふりをして対話の中でそれを使ってしまう、そして、誤解やすれ違いを生んでいるうちにいつの間にか元の言葉の意味とは違うところで、つまり、日本の文化的背景の中で、勝手な意味を持って独り歩きしてしまう危険を生んでしまう。だから、時々、わかりにくい言葉について議論してみるのは悪くない。日本語に正確に訳せる可能性があるのであれば、少し努力してみるのもいいと思う。

 私がお世話になっているある高齢の俳句の師は、もともと小学校の先生をしていて、のちに、俳句研究の大家になられた方だ。この先生が、戦後間もなく、「批判読み」というタイトルの本を出されたと聞いた。たぶん、クリティカル・リーディングの直訳であったのだろうと思う。残念なことに、この日本語で「批判」という時の、どちらかというと否定的な響きが悪く、広く売れるには至らなかった、と回顧しながら苦笑されていたのが印象的だった。

 日本語で「批判」というと、確かに非常に「否定的」な響きが付きまとう。「批判」という語だけが否定的なのか、それとも、「批判する」「批判される」ということが否定的なことと受け止められているのかは判然としない。私は、多分後者ではないか、と思っている。

 だが、クリティカルという英語、また、それに準じるオランダ語には「否定的」な意味合いはほとんど伴わない。言うまでもなく、クリティカルであること、クリティカルなコメントを受けること、そのこと自身に、否定的な感情はほとんど伴わない。むしろ、肯定的で、喜ばしい、歓迎すべきこととして使われることさえあるといってよいと思う。これは、まさに、文化の違い、精神性の違い、人々の「多様な価値観」に対する開かれた態度がどれほど発達しているか、もっとはっきり言えば、近代市民としての、自分自身に対する反対意見や異なる意見に対して開かれた態度があるかないかの違いなのだと思う。

 教育制度や教育方法について研究していると、この「クリティカル=批判」という言葉には大変しばしば遭遇する。そして、そのたびに、「さて、どう訳したものか、、、」と頭を抱えてしまう。日本人に向けて、「批判」と直訳してしまうと、はじめから警戒されたり否定的にとられて、本来の意味を誤解されてしまう可能性が予想できるからだ。ある時以来、私は、この言葉を、少しまどろっこしいくて長いが、一定の文脈の中で使う場合に限って「自分の頭で考えて」と訳すことにした。

 さて、クリティカルとは何だろう、、、

 大学院を卒業するまで日本で教育を受けた私は、本当の意味で「クリティカル」にものを考える習慣も、そうする方法も、どの教育段階でも学ばなかったという気がする。それがために、大学院で論文を書くに至っても、研究というものは、とても個人的で内省的なもの、問題意識や動機を他の人と共有することがとても難しいものだ、と思い込み、感じ続けていた。振り返ってみればまことに残念なことだと思う。

 あの時に、「私は、こういうことがわからないので、この問いに答えを出したくて、こういう方法で研究を始めてみたのですが、こんなところで行き詰まってしまいました。皆さんの<ご批判>とアドバイスをいただければと思うのですが、、、」というような研究をすることができていたならば、どんなに良かったであろう、と思う。

 クリティカルとは、自分の頭で、率直に、物事を見たままに受け入れ、それについて考えてみることであり、それに、他の人から、つまり立場やモノの考え方の異なる人からの角度を変えた感想や意見に照らして、もう一度、検証する態度であると思う。自分の目だけを絶対的とするのではなく、こうも考えられるし、こうも解釈できる、と条件を変えて、目の前の対象物の意味を、いろいろな立場から見直してみることだ。そういう態度を繰り返すことで、自分自身の理論が、たとえそれが仮説であっても、いろいろな批評に耐えられる強いものになっていく。

 大学院の学生になったばかりのころ、学会発表が怖かった。たった15分の発表が怖くて仕方がなかった。「研究は<批判>されてよくなるのですよ。だから、怖がることはない」などと言ってくれる師や先輩がいても、そう、あるがままの自分を見せることができなかったのはなぜなのだろう?

 「批判」と言えば、挙げ足を取り、相手の理論をこてんぱんにつぶすことだと考えている人は多い。でも、それでは、批判される側にも、批判する側にも何も役立つものは残らない。

 わたしの子供たちが育ったアメリカンスクールやオランダの学校を振り返ってみる。小学校の時から、自分の意見や考えをみんなに披露する機会が繰り返し繰り返し合った。遊びのような気軽な雰囲気の中で、他の子供たちが意見を言い合う。「わからない」「知らない」「いいえ」とはっきり人前で言うことに子どもたちは何の抵抗もないようだった。「恥ずかしがって」ものをいわない子どもは「おとなしくてよい子」ではなく、自分の意見を言わない、あっても言葉にできない「困った子」として先生の頭を悩ます子だった。子どもが忌憚なくモノを言える場を作るために、先生は努力して場を作りシチュエーションを考えていたように思う。

 <クリティカル>とは、自分の考えを組み立てていくのに、いったん、立場を変えてみたり、反対の意見や理論と比べてみたりする中で、自分の考えを、<相対化>して見直すことに他ならない。

 なぜそれが大事なのだろう。それは、自分だけの考えを絶対視する「独善」に陥らないで、自分の考えを、批判にさらすことで、よりよく磨いていくことができるからだ。

 そもそも画一教育をしたり検定教科書を作ったりと、一つの価値観を国民全員に押し付けようとする、少数の金持ちと権力者が牛耳っている社会というのは、意図的に「多様」な価値観を避け、意図的に「批判的態度」を抑制し、意図的に「相対主義」を排しようとするものなのだ。

 「残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ」という本を書いたら、結構いろいろなところから「なぜオランダをそんなによく見るのだ」「ちょっとオランダに陶酔しすぎているのでは」という感想がきこえてきた。私という書き手個人にとっては、書き方の批判としていい批判だと受け入れるつもりはある。自分では、それほどオランダびいきではないつもりだったが、やはり、外からはそう見えるのだな、ということがわかったからだ。

 だが同時に、そういう感想の中から「日本をそんなに悪くいわなくてもいいじゃあないか」という沈黙の不満の声も聞こえてくる。どこの国の人も、えてして、外から「批判される」ことは嫌いだ。だから、多くの人々は、外からいわれる前に少々自虐的に自己批判して、厳しい外からの批判の前にクッションを置いている。新聞の風刺(画)、テレビ番組での政治家批判やニュースを話題にしたお笑い番組などはそれだ。しかし、日本の新聞には、最近、そういう種類の風刺や、自国の政治家を笑い物にできるようなテレビ番組の類、川柳なども、以前に比べるとすっかり影をひそめてしまっている。あまり健全な状態ではないな、と思う。

 日本がよくなるために、いや、どの国にとっても、独裁的な支配者を生まないためには「クリティカル」な外からの視点が必要なのだ。
 日本人が内側から見ていただけでは見えないものを、少し良くくっきり見えるようにするために、オランダでも、何でも、外からの視点を取り入れてみることが必要なのだ、と思ってあの本を書いた。ヨーロッパの国のように、お互い切磋琢磨する競争相手が横並びになって存在する状態から、ずっと離れている日本には、ぜひ、そういう機会が必要だと思った。だが、その意図が受け入れられたかどうか、それは五分五分というところかもしれない。

 もとより、絶対に間違いのない、これだけが最善の考え、などというものは、世界中どこを探してもない。すべての理論は、次に新しい方法で新しい理論が生み出されるまでの、当座の仮説でしかない。また、理論を生み出す背景にある条件が異なれば、さまざまの異なる帰結が考えられる。

 自分の意見も、他の人の意見も、あくまでも当座の<仮説>にはすぎないけれど、それでも、いったん真剣に、前向きに受け入れることができるかどうかで、自分も他の人も、限りなくよくもなれば、停滞もする。

 社会がオープンかどうかというのは、<批判>に対して開かれている人が多いか少ないかによって決まる。