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2008/12/11

言葉としぐさ

 ずいぶん前のことになるが、外国人と国際結婚をしている女性たちとネットワークを作り、意見交換をしていたことがあった。その中で、外国人の夫たちが「思いやり」がないという不平が共通していたのが興味深かった。

 確かに、言葉にしない素振り、あてこすり、といったものは、日本人ではない夫にはなかなか伝わりにくい。逆に、はっきり言葉にして「あなたのこういうことがこういう理由で気に入らないから直してくれ」というと、「ああ、そういうことだったのか」とすっきりと難なく伝わったりする。

 こういう、言葉以外のしぐさをコミュニケーションの道具する、というのは、価値観が多様化して個人主義が進んだ国ほど少ないのではないか、と思う。オランダなどは、まさに、その典型だ。1950年代くらいまでは、まだ、カトリックやプロテスタントなど、それぞれが属しているマイノリティ集団も固定的であったので、言葉にならないコミュニケーションが通用していた場面も残っていたかもしれない。だがそれ以後、特に、70年代以降、それまでオランダに主流の既成概念として受け入れられていた様々のタブーが突き崩されてからは、相手に対して「わかってくれるでしょう」「わかっているはずなのに」という期待をかけた仕草はほとんどできなくなってしまったのではないか。

 日本に帰ると、そのたびに、このオランダと日本の差を感じる。

 いちいちこちらの考えを完全に言葉にしなくても、相手が「思い図って」先に気を回してくれる。
 その居心地の良さと言ったら、それこそ言葉にしてあらわしようもないほどだ。普段、自分の気持ちを常々言葉にしなければ、周りから理解されなかったり無視されたりする社会に慣れ親しんでしまっているだけに、頭に思いを浮かべただけで物事が進んでいくかのような日本の人間関係は、他に比べようもないほど心地の良いものだ。
 最近「空気を読める」という言葉が流行っているが、たぶん、このことを言っているのだろう。

 ただ、問題は、その逆の場合だ。そして、そう思うと、「空気を読め」という日本的な社会的な圧力は、国際的な異文化交流の場面では、むしろ逆効果なのではないか、と危惧する。

 日本人が外国に出て行った場合、単に、英語が堪能ではない、という理由だけではなくて、普段から、感情や意見を一つ一つ正確に言葉で他人に伝える努力をしていない、ということが裏目に出てしまうからだ。

 何を隠そう、そういう私自身も、今から25年以上も前、はじめてオランダに来たときには、それが最大の問題だった。若い娘はつべこべ言わず黙って微笑んでいればいい<日本>から、はっきりモノを言わなくては何を考えているかなど誰も顧みてもくれない<オランダ>に来たのだから、、、

 しかし、長く外国に住んでいると、こういうことも考えるようになった。
 日本ほどではないにせよ、どの国にも、言葉以外の小さなしぐさや表情による意思疎通があるものだ、ということに気付くようになった。あるいは、その国だけで使いならされた言い回しが、言葉通りの意味ではないこともある。
 たとえば、何かを英語で議論していて、アメリカ人やイギリス人が、Oh, that is interesting! といった時には、字義通りに受け止めないほうが無難だ。「興味深い」などとは、相手は微塵にも思っておらず、実は、「なんだ、月並みな話だな」としか思っていない場合が大半だからだ。
 しかし、これとて、国際的な場面で、いろいろな文化的な背景を持つ人々が集まっている場では、既成の、皆が了解している共通のサインとしては、機能しないだろう。
 どの国の人も、自分の背負っている文化的な背景を、いったん自分から取り外す努力をして、相手に耳を傾け、自分の考えを言葉にするのが、異文化交流の第一歩なのだ。

 当たり前のことだが、外国で暮らすとなると、コミュニケーションは極めて重要。誤解が重なれば、ただでも孤立感の強い外国で一層孤立してしまう。ありとあらゆる感情や意見は、可能な限り「言葉」にして表現しておいたほうが、自分の精神を健全に保つためにもよい。

 昔は「郷に入れば郷に従え」と言って済ましていられた。それくらい、わざわざ外国に出かけて行く人の数は少なかった。それぞれの国で、その場の文化的な規範を丸ごと受け入れて、それに従って行動できるのならば、それにこしたことはない。
 しかし、何カ国もの国を動いて仕事をしたり、様々の多様な文化的な背景をもつ人々が一同に集まる場所に行く場合にはいったいどうすればよいのか。やはり、自分の立場や意見は、言葉で説明していくしかない。そうしなければ、無視され、「何も考えていない」と思われても仕方がない。

 思いやり、微笑みの文化は美しい。その優しさは貴重だ。そういう仕草は、外国でも尊重されることは疑いもない。だが、そのことと、自分自身の思いを相手にきちんと伝えきれているか、ということとは別のことだ。自分の考えを尊重されたい、相手と同じ土俵に立って、ともに何かをなしたり、ともに社会に貢献したい、という気持ちがあるのなら、日本の外に出ていく時には、それをちょっと言葉にして、自分が何者あるかを説明できる能力は、育てていたほうがいい。

 言葉が通じない間は「空気を読む」のも大事だと思う、しかし、それに頼ってばかりではまずいだろう。やっぱり、様々の文化的な約束事から解放されて、異文化の人々が一堂に会し、平等に世界の未来について話し合っていく国際化の時代には、言葉を手段としたコミュニケーション能力が、とても大切だと思う。