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2008/12/05

あとずさる民主主義???

 人間の社会は、普通、権威主義から民主主義へと発展していくものだと思っていた。けれども、今、日本では、民主主義が権威主義へ激しく撤退していこうとしているという。そうだとしたら、世界のなかでもそんな例はあまりにないのではないか。

 かつて日本通のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ファン・ウォルフェレンは「日本・権力構造の謎」などの本を著わし、民主主義の発展を阻む日本社会独自の権力行使の在り方を外国人の目で鋭利に分析した。この本は、90年ごろ、”The Enigma of Japanese Power”というタイトルで、国際的にも広く知られた本だ。当時、ウォルフェレンの著作は、日本の中でも、少なくとも知識人階層の間ではかなり広く良く読まれたのではなかったか、と思う。バブルが崩れて先行き不安になった日本人にとって自らを省みるために重要な客観的な視点を与えてくれる本だったのではなかったろうか。

 最近、彼よりも何年かあとに、オランダの主要紙の特派員として10年余り日本に滞在したハンス・ファン・デル・ルヒトというジャーナリストが、日本についての本をオランダ語で著わし、そろそろ書店の店頭に出てきている。「くびきにひかれた民主主義―――スクリーンの後ろの日本」とでも訳そうか。彼は、90年代の後半からつい数年前まで、日本から様々の特集記事をこの紙面で発信していたので、日本に少しでも関心のあるオランダ人読者にはよく知られた記者だ。

 この3日、その広報の意味もあってか、ファン・デル・ルヒト自身が、NRC紙のオピニオンページの紙上で、かなり目立った記事を書いていた。
「非民主的な日本はゆっくりと後退していく」と題されたこの記事、副題には、「保守的なリーダーたちは将来へのビジョンを欠き、日本の伝統の豊かさを好んで話題にする」、そして、リード部分には「経済大国日本は、アジアの他の諸国が嵐のような成長を遂げているそばで、権威主義の過去へのノスタルジーにあとずさりしている」とある。
 ファン・デル・ルヒトは、バブル崩壊後の日本の経済について、日本の政治が無策であったこと、先進諸国の中では例外的なほどに大きな国庫負債を背負っていて尚、今回の金融危機でも将来への何の見通しもなく国庫から多額の金融支援注入を決めたこと、その一方で、失業率は急増、しかも、失業者として登録される数には疑いが多く、引きこもり・ニート・フリーターは増え続け、自殺者の数は倍増、生命保険の保険金を遺族に残してやっと家族を守る人がいると述べる。田母神問題にも触れ、日本の政治家や企業家の常軌を逸した歴史認識に慨嘆してもいる。

そして彼はこう続ける。
「(田母神の)この更迭は、実は、見せかけのものにすぎない。自由民主党の政治家たちは自分たちもまた戦争について肯定的な言葉で語りたくて仕方がないのだ。更迭などをするよりも、戦争についてのオープンな議論をすべきであった。こういう議論を行うことで、日本という国はこれからどんな国になりたいと思っているのか、それは、権威主義の国なのかそれとも民主主義の国なのか、という問いをやっと議論できたはずだ。現在政治の主導権を握っている人々は今もまだ岸信介の人形劇を演じているだけだ。岸は1930年代40年代の戦時内閣におり、一度は、アメリカ合衆国によって戦争犯罪人の容疑で刑務所に入れられた人だ。政治的日和見主義が彼を1948年に自由の身にした。」

 オランダの主要紙の紙上で、日本についてこのような報告がなされているのだ。
 日本国内の新聞には到底取り上げても貰えそうにない論説が、海外では公的に発表される。せめて、国外のメディアがどんな風に日本を伝えているかくらいは、日本人も知っていて良さそうなものだ。

 ウォルフェレンのころまでは、日本の書籍市場の中には、まだ、外国から見た日本や、外国の者への関心が大きかったと思う。しかし、最近は、日本人の海外事情への関心がとても薄くなってきているようだ。日本国内に山積した問題があまりに多く、海外のことなど考えている余裕がなくなっているのかもしれない。「お前らにオレたちの苦しみがわかってたまるか、自分たちだけいい生活をしていて偉そうなことを言ってくれるな」とでも思っているのかもしれない。

 しかし、それだけではないように思う。
 特にテレビや新聞といった、一般市民への影響力が極めて大きなマス・メディアのジャーナリズムが、日本社会についての自己批判を書きたがらなくなっているのではないか。もともと、政権を獲得している与党の議論以外は避け、批判的な意見には発言の場を与えてこなかったのが日本のテレビや大手の新聞だ。その中で、唯一、率直で忌憚のない意見が聞こえたのは、日本国内に政治的立場を持たないだけに偏見の少ない外国(人)からの視点だった。しかし、それさえも、最近はあまり大きな影響力を持たないような気がする。少なくとも、様々の世界の出来事について諸外国のジャーナリストたちの論説がほとんど同時で伝わるオランダとは大きな違いだ。

 日本は、戦後アメリカ占領の下で「民主主義」制度を取り入れた。アメリカ主導の上からの「民主主義」を、ファン・デル・ルヒトは、日本人の政治的な確信によって生まれたものではなく、単なる「日和見主義」からのものだった、という。現に、朝鮮戦争勃発以後、米ソの冷戦体制が固まっていく中、日本の社会主義的な運動はことごとく抑圧され、日本の政治は、アメリカ合衆国の傘の中に完全に置かれることになる。その時代、戦争を放棄した日本人が、過去に目をつぶって、ひたすら「経済発展」のために身を粉にして働いていた、ということを思えば、その非は、日本人自身のものではなかったと言い訳することもできなくはない。

 だが、それが、どれだけ日本人と日本という社会の未来を担う子供たちを不幸に陥れるものであったことか。ヨーロッパの国々では、この同じ時代に、高度の社会福祉制度が確立し、人間一人ひとりの価値を認める社会意識が力強く発達していったのだ。そして、その差は、バブルがはじけた時に、日本人の目にも一目瞭然であったはずではないか。

 けれども、そのすべてが誰の目にも明らかになった今、日本人はまたしても、世界に目をつぶろうとしている。まるで耳を両手で塞いで「イヤイヤ」と首を横に振っている子どものようだ。そして、今回の日本人の選択は、60年代のそれのようにアメリカのせいにするわけにはいかない、日本人自身の選択だ。

 かつて黒船が来て日本が開国を迫られた時に、指導者たちは、日本が世界から技術的に後れをとっていることを垣間見ていたにもかかわらず「イヤイヤ」をした。唯一長崎の出島に窓を開いて見ていたオランダから、日本の遅れは見えていた。

 今回の日本の閉塞はあの時代の鎖国主義と同じだ。誰が風穴をあけるのか。 

 しかし、ここには大きな大きな問題がある。
 こんなに議論することも政治に参加することも知らないままの日本人であるというのに、自分たちで勝手に「民主主義を見てしまった」と思い込んでいることだ。日本のテレビやジャーナリズムは、反対意見を持つ知識人を公共の場から押し出しているというのに、それでもまっとうに、民主主義国のメディアを背負っているつもりでいることだ。多くの学者たちが、日本語の論文を書くだけで、英語での学術論争をしないままにお茶を濁してしまっていることだ。批判のない政策や科学は退化するだけであるというのに。

 日本では、民主主義が後退しているのではない。日本には、いまだかつて、一度も「民主主義」など存在したことがない。そして、非民主的なままの日本は、せっかく到達した「先進国」という肩書も、ひょっとしたら、いつか返上してしまわなくてはならなくなるかもしれない。