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2008/12/19

原点・沖縄

 人種差別という言葉がある。OO人である、という理由で、その人の個人的な背景も性格も経験も一切考慮せずに、OO人一般についての「偏見」に基づいて、つまり、色眼鏡をかけてその人を見ることだ。
 27年間日本の外で暮らしてきたが、私が、自分自身の体験として「日本人」であるのを理由に強い偏見をもって見られたという経験は、実を言うと数えるほどもない。

 振り返ってみると、最も露骨に苦い思いをしたのは、むしろ、日本を出る前、25歳の時に行った沖縄でのことだ。

 大学の仲間と、沖縄で地域調査をしていた時のことだ。地域の情報を集めに、市役所に行って話を始めた時に、その後ろの事務机で働いていた職員の間から、どこからともなく「ヤマトンチュウ」という言葉が聞こえてきた。小声ではあったが、決してひそひそ話ではない。明らかに、そこにいる私たちにはっきり聞こえるほどの声量で、そう誰かが言ったのだった。気づいて、声のした方を向くと、何人かの職員がさっと目を伏せた。後味の悪い、いやーな気がした。

 第2次世界大戦中に、日本本土からきた日本軍の兵士たちが沖縄でしたこと、戦後長くアメリカの占領下に置かれてきた沖縄、戦前からずっと続いていた沖縄の人たちに対する日本本土の人々の蔑みの目、それらを考えれば、上のようなことが起こったのは無理もないことだ。私たち本土からの学生に対する「ヤマトンチュウ」という言葉は、むしろ、差別されてきた人々からの怒りの言葉であったにちがいないのだから。

 そういう、「痛い」言葉「痛い」まなざしに象徴される底の深い「憤懣」があるにもかかわらず、調査中に出会った沖縄の人たちの中には、やさしい人たちが多かった。どの人もどの人も、会う人ごとに、必ず、家族や親族の中に、少なくとも一人、戦争で命を失った人がいた。農地を米軍に取られてしまった人も少なくなかった。

 それなのに、たいていの人が、私たちを自宅の居間にまで入れてくれ、たくさんの話を聞かせてくれた。たまたまランダム抽出で聞き取り調査の対象になった酒屋のおかみさんは、私の方の調査が終わると、そのまま、盃に酒を酌みながら、夜更けまで自分の身の上話を聞かせてくれた。この人も、戦時中に家族を失い、戦後、職を求めて上京したが、どうしても東京の生活に慣れることができず、沖縄に帰ってきた人だった。その間には、出会いや別離のドラマもあった。

 「ヤマトンチュウ」と呼ばれ、目を伏せた人たちの感情が、だんだんに、痛いほど実感として分かっていく調査の過程だった。


 そうしているうちに、那覇島からは少し離れた久米島の出身者が集まっている集落に調査に行くことになった。話を聞いているうちに、久米島出身者は、沖縄本島にある那覇では、周りから「差別されている」ということが分かってきた。さらに話を聞いていると、実は、そういう久米島出身者ですら、それからさらに小さな離れ島から来ている人たちに対して、差別感情を持っていることが分かってきた。

 あの日、私たちに「ヤマトンチュウ」という言葉を差し向けたあの人たちも、もしかすると、その後ろに、もっと小さな島の人を差別する感情を無意識のうちに秘めていたのではないのか、、、この差別の連鎖は果てしない。

 国境の内部に、数多の島を抱えている日本という国。それは、果てしもなく、上下の連鎖を作らずにおれない社会だ。

 それは、自分が属する場や集団にかかわりなく、自分という人間存在の尊厳を誇るメンタリティとは全く次元の異なる、優越感情と劣等感とが裏と表に重なり合った精神だ。

 人と人との違いを、こういう上下関係にしてしか受け止めることができない精神風土の国に、私は生まれ育った。知らず知らずのうちに、話している相手と自分の関係を、そういう上下の関係においてしか受け入れることの出来なくなっている自分がいることを、時々自覚して、思わずゾッとすることは、いまでもある。

 「違い」というものを、横並びの、違っていても同等の価値のあるものとして受け入れる力は、日本という国の中では本当に育てていくのが難しい。
 しかし、それがなければ、異文化理解など不可能だ。国際交流など、単なる大国主義に落ち着くだけだ。