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2008/12/01

反骨の血

 わたしの母の父方の家系は、かつて九州一の家具の町といわれた大川で、製材所がつかう機械を導入したり、電気機器を取り扱うなど、技術畑の仕事をしていたらしい。いわゆる「家柄」というほどの由緒のある家ではなかったが、先取の気性はあったようだ。

 父のほうの家系は、代々続く神主の家柄、数代前には国学者もいた。しかし、そういう父方の親戚の人々のことを、私は子供心にも、なんとなく線質が細いと感じ、母方の親戚の方が、家柄などにこだわらない、男っぽい気性の人たちだと思っていた。


 戦時中の、自由な空気が閉ざされた堅苦しい世の中で働き盛りの年齢を過ごした母方の祖父は、そういう嫌な時代に、自分なりに反骨の気分を心に滾らせていた人であったらしい。


 当時十代の半ばだった母。学びたかった英語は授業から締め出され、県大会で優勝までいったバスケット部での活躍も、全国大会の廃止で夢が閉ざされる。女学校の授業は徐々に学徒動員で飛行場での飛行機作りに代えられた。食糧は次第しだいになくなり、家にある金属類は拠出させられ、空襲警報が度重なるようになり、母たちの青春は、鬱々とした時代の中に奪われていった。


 若かった母の神経はそういう緊張の中で研ぎ澄まされていったのだろう。空襲警報が鳴る前に敵機の到来を感知して、家族を気味悪がらせたという。夜間には、家の室内の灯りが外に漏れて空襲の的にならないようにと、近所の役回りが始終見張りに来ては注意をして回っていた。

 母は、そういう時代、祖父の勧めで仕舞の稽古に通っていた。夜間、外に灯りが漏れないように真っ暗に目張りをした家の座敷で、祖父は母に「さあ仕舞でも舞え」と促したという。近所近辺の人たちは、そういう祖父をどんなふうに見ていたのだろう。「こんな時に贅沢な風流」と後ろ指を指していたのだろうか、それとも、ぎすぎすと息苦しい時代に、風流を忘れない祖父を陰ながら「いい奴だ」と思ってくれる人もあっただろうか。平和な時代に生まれ育った私には、祖父の反骨をただ誇りに思うばかりだ。何をするにも、他人がどう思うかを気にしてしまう気の小さい私などには、こんなに緊張の続いていた時代に、祖父のような言動は到底できなかったことだろう、と思う。



 そういう祖父の一人息子で母の兄、つまり私の伯父は、この父親の男気のある凡庸とした大きさがために、かえって反りを合わせることができず、ずいぶんと苦しんだらしい。反骨精神の旺盛な父親のもとで、自分もまた同じ反骨の血をひいていた息子には、若者らしい<反抗>以外に自分らしく生きる術はなかったのではないか。


 この伯父のことを私は長く識らなかった。嫡子であったにもかかわらず、若いころに家を飛び出し、長く行方不明だったからだ。飛び出したが最後、家には一切寄りつかず、母が嫁いだ時も、祖父が亡くなった時にも姿を現さなかった。やっと故郷に帰ってきたのは、私が中学生の時だった。家を出てから、たぶん20年くらいの歳月を経ていたのではなかったか、と思う。



 伯父は、祖父が亡くなって未亡人になった祖母が、とうとう自分で身の回りのことが出来なくなり母の嫁ぎ先に来て一緒に住むようになっていた頃、ある日突然、空き家になっていた実家に帰ってきた。そして人づてに母の居場所を訪ねてきた伯父を、母はそれでも嬉しそうに迎えた。だが私は、この伯父について、長いこと、「身勝手な親不孝者」という先入観を持ってしか受け入れられなかった。祖母や母と共に伯父の家を訪問しても、「この人は親を捨てて出ていったようないい加減な人なのだから」という気持ちが先に立ち、伯父の言動をまともにを受け止めようとは一度も思わなかった。
 
 そんな伯父は、晩年、いくつもの慢性病を患っていたというのに、結局、母よりも長生きすることになった。  8年前に元気だった母が急逝してしまったあとに、母方の血のつながった親戚としてのこされたのはこの伯父ひとりだ。母の思い出を手繰るように、私はその後、帰国するたびに、伯父夫婦を訪ねるようになった。ずっと疑心暗鬼の気持ちを抱いて真面目に会話などしたことのない姪だ。伯父の方も、私には、粗っぽい言葉遣いしかしなかった。それでも、訪ねていけば、叔母と共にいつも大事にはしてくれた。
 
 そういう風にして伯父の元を訪ねていたある日、伯父にふと、昔母から聞いていたことを尋ねてみたくなった。母は、伯父が、昔、戦時中に徴兵で兵隊にとられていた時、ある事件を起こして、それが原因で、祖父が村の権力者たちに大盤振る舞いをして伯父に汚名が残るのを避けたことがあった、と言っていたからだ。

 しかし、その「事件」とは一体何だったのだろう。今まであまり気にかけてはいなかったが、その時、はずみで、ふと聞いてみたくなった。

 小春日和の庭を眺めながら、炬燵に足を突っ込んだまま横になっていた伯父は、そういう私の問いに驚く様子もなく、徴兵先で、自分ともう一人の同僚に夜の見張りを命じた上等兵が、自分の持ち場で居眠りをしていたのが気に食わず、カッとして殴りつけたんだ、という話をしてくれた。血気盛んな年だったのだなと思う。今、そのことを思い出話として語る伯父の言葉にも、その上等兵の体たらくを思い出してか、幽かな苛立ちが浮かんでいる。

 なぜこんなに気持ちの良い話を今まで一度も聞かずに来たのだろう、と私はその時思った。伯父を誤解してきた自分がさびしく、長い間の誤解が、その時ポロリと力なく落ちたことが、変に滑稽でもあった。別に、大げさに、伯父に言葉を返したわけではない。記憶の底の思い出を語って、少し自虐的に笑っていた伯父と一緒に私も笑って返しただけだったように思う。
 今年の夏、その伯父も、とうとうなくなった。亡くなる前に、あの話を聞いていてよかった。今、帰国して手を合わせる仏前の伯父には、血の通った伯父への懐かしさはあっても、親不孝者とという責めの心持ちはない。

 ともあれ、兵隊だった伯父が起こしたこの一件は、天皇崇拝、上意下達の極限をいっていた戦時中のことだ。そのたった一夜の事件は、もしかすると伯父のそれからの一生を台無しにするかもしれない大事件だった。だから、祖父は、村の権力者を集めて息子の汚名を果たすために、大枚をはたいて飲めや唄えの宴会をしたのだった。

 何という時代であろう。
 戦時中のことだ。そこそこに潤沢な家計だったとはいえ、先行き不安のその時代、蓄えは、どんなにあっても十分とは思えない時代だったろう。それでも祖父にとって息子の将来はカネなどには代えられないという思いがあったのにちがいない。
 しかし一方、親の資力で人生を救われた息子にとって、そんな父親の元にいられなくなったのは当然といえば当然のことだ。ほんとうに、何という時代であろう、、、、

―――――

 オランダ人の夫との結婚が決まって間もなく、わたしは、オランダ人たちの間に、400年余りに及ぶ友好的な日蘭通商という歴史に所以する温かい日本へのまなざしのほかに、他方で、相当に厳しい反日感情があるということを知った。
 第2次世界大戦中に、蘭領インドと呼ばれた今のインドネシアの地域で日本軍の捕虜となった経験を持つオランダ人たちが多数いるからだ。乳飲み子の年齢で、強制労働に取られる父親と引き離され、劣悪な生活環境の収容所に捕虜となって押し込められた人たち、9歳ほどの年齢で母親から引き離され、男だけの捕虜収容所で、病人の世話や死人の始末をさせられた子供たち、異常な生活環境で発狂する母親に精神の安定を奪われた子どもたち、捕虜体験の果てに終戦後両親や兄弟姉妹を失って着のみ着のままで赤十字社が配給した襤褸衣装を着て寒い北国のオランダに帰還した人は少なくない。慰安婦とならされ性の奪われた少なくない数のオランダ人女性らの恨みは今も続いている。捕虜収容所時代の記憶から解放されず、今もトラウマが続いている人たちは、日本人が周囲にいると知るだけで、不安でいてもたってもいられなくなるという。

 こうした、日本軍の捕虜となった経験を持つ人、その子どもたちがどれだけいるのか、日本人はほとんど知らない。だが、前政権の外務大臣は自身が捕虜体験者、現政権の厚生省国務次官は捕虜体験をトラウマとして持っていた父のもとで育った人だ。いま日本に駐在しているオランダ大使のお父さんも捕虜体験だということを最近知った。有名な作家の中には、日本軍への怨念ともいえる思いを今も題材に本を書き続け講演している人もいる。それほど、オランダには、日本軍の捕虜体験者やその家族がたくさんいる。そして、そういいながらも、その人たちのみながみな、今の日本に恨みや怒りを抱いているとも限らない。戦争というものの異常さを理解し、日本人に対する不信や反感、トラウマを乗り越えた人たちもいる。

 そういう捕虜体験者との対話の会にわたしも加わっている。トラウマを乗り越え、日本の今の世代の人々との対話を求めているオランダ人と、年に1回集い、お互いに意見交換をしている。
 
 日本軍の犠牲になった外国の人たちに「詫びる」現代の日本人は少なくない。「和解」「赦し」という言葉がそういう会合では飛び交う。キリスト者の中には、宗教を媒介に、犠牲者と共に「和解」の祈りをする人も多い。若い学生など、自分の国の歴史の汚点を初めて知らされ涙を流す以外にすべを知らない子もいる。それらがすべて間違っているとは、私も、もちろん思わない。しかし、私には、「詫びる」「和解を求める」「赦しを請う」「共に祈る」という行為が、素直に、自分の率直な意思としてできない。
 
 わたしには、軍の上官の指令を受けて、オランダ人捕虜を強制労働に駆り立て、人間の仕業とは思えない拷問をしたり、女たちを強姦していた日本人兵士の方が、苦しみの底にあったオランダ人に比べて、どう見ても、より一層みじめな存在に思われて仕方がないのだ。彼らは、人間としての理性と感情を誰からも認められていなかったのではないのか。
 捕虜としての苦渋の日々にも、強制労働に取られていた夫と愛情に満ちた文通を続けていたオランダの女性たち、収容所でなけなしのガラクタを上手に集めて、絵を描き、楽譜を作り、日本人兵士の風刺画を描き続け、すごろくなどのゲームを作って遊んでいた捕虜たち。死の床にあって「日本人を憎んではいけない、これは神の仕業なのだから」と言い残して神への祈りの中で死んでいったという母親たち。日本人の行動を理解しようと日本文化についての本をむさぼり読んでいたという人たち。彼ら彼女たちの方が、人間の尊厳ということをどれだけ信じて豊かに生きていたか、と思うと、上官の命令だけで自分の意志など持つことも許されなかった日本人兵士の方が、みじめで惨めで情けない。今になって「詫び」「和解」など偉そうに言えるほど、日本人は、尊厳をもって生きることを許されていたのだろうか、今の日本人は、そんな偉そうなことが言えるほど人間としての尊厳のある生き方をしているのか、と思ってしまう。

 あの時代の日本の精神、あの時代の日本の教育は、しかし、戦後も何一つ変わっていない。
 変わらないままの日本、そこに生まれ育った私は、戦争中の出来事、沖縄のことを学校では何一つ学ばずに過ごした。そういう自分に、一体、どんな気持ちで、このオランダ人たちに「詫び」たり「和解」せよというのだろう。

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 祖父や伯父の反骨の血が私の中にも少しは流れているのではないか、そうであったらよいな、と時々思う。
 
 反骨は理性だ。

 しかし、戦後60年以上たち、物質的には何不自由ない社会となった日本でさえ、祖父や叔父のような反骨は、きっと出る杭を抜き取るように排除されるのではないか。
 人間としての普通の感情、人間としてごく自然に行きつくはずの善悪についての理性を心に抱いていても、なお、そういう社会の中で「協調して」生きなければならない人たちの不幸は、捕虜の苦しみと変わらぬほどに、あるいは、それ以上に深刻に、人間の生にとって重篤な不幸だ。