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2008/11/18

狂気と月並みの間

 世の中の変革というのは、狂気と月並みの間で社会の行方を追う人の頭から生まれるのではないかと思う。変革を求める意識は、現状の問題を並べ不平不満を述べ立てるだけで容易く広がる。しかし、そうして眼の前に並べられる問題を乗り越え、求められる変革を具体的な像として描ける人は本当に数少ない。それができるためには、歴史を読み、現在の人々の立ち位置を外から客観的に眺め、経験としてではなく、先験的に未来の社会の行くえについて、いくつもの可能な選択肢に思いをめぐらす洞察の力が必要だ。

 バブル期以後の日本の出版界や新聞などのジャーナリズムでは、知らず知らずのうちに大衆の好みを追い、大衆が喜びそうな話題を提供して、情報というほどの価値もない手垢のついた印刷物を売って稼ぐものが主流になってきたのではなかっただろうか。特に、バブルに加えて、インターネットの普及で、人々が活字から離れれば離れるほど、紙に書かれる印刷物を勝負とする出版界の人々は、確実に「売れる」テーマや話題で資金稼ぎを迫られ、意図的にブームをつくり、自分で作ったブームの中で、後追いジャーナリズムと後追い研究を蔓延させることになって来たのではないか、と思う。

 しかし最近、日本のジャーナリズムが、少し、変わり始めているのではないか、という気がする。少なくとも、漫然と大衆に追随するのではなく、何か、より意識の高い読者の求めているものを提供するために、方向のある話題を生んでいく必要を、以前に比べてより強く感じているように思われる。 一般に活字のものが読まれなくなっていく中で、いよいよ、オピニオン形成ということこそが、ジャーナリズムの使命であるということを再認し始めているのかもしれない。

 社会の変革は、その社会の周縁の部分からおこると信じている。大多数の意見を後追いして漫然と大通りの真ん中を歩いていくような人々からは変革の力は生まれない。ジャーナリズムの役割は、周縁部分に立ち位置を定めて、小さくとも展望のある声にチャンスを与えるための場を与えることだ。

 変革は、たとえ9割ほどの人々が考え、同意するような考えがあったとしても、その中からは生まれないのではないか。意表を突く意外性、大半の人々が気づかなかったアングルから、日常見慣れて気付きもしなかった現象、見過ごしてきた些細なものに新たな光を当てるときに、新しい考えが生まれ、それが人々の意欲や動機付けを引き出し、変革へと導いていくような気がする。

 けれども、だからといって、狂気といえるほどの意外性は、かえって月並みな人々を必要以上に熱狂させ、独善やカリスマを生み、やがては、人気取りの政治と無批判な追随に身を任せる大衆行動を社会の中に増長し、最終的にはその社会を破壊に導くことだろう。

 月並みに陥らず、しかも、狂気の沙汰に走らない、言い換えれば、大衆の人気に惑わされず、かといって自己満足と自意識過剰に陥らない微妙なバランスのある生き方をあえて選ぶもの、月並みと狂気の間の危うい緊張の中に身を任せ考えて耐え続けるものが、きっと未来の社会を切り開き導いていく役割を負っていくのだ、と思う。