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2008/11/03

三周遅れのニッポン

 世界金融危機のおかげで、ひょっとしたら、教育や医療、年金問題などの公共政策が、またしても後回しになるのではないか、という危機感がある。特に、もうこれ以上フリーターも、不登校も、いじめも、自殺も、一人暮らしの老人も、孤独死も、引きこもり、ホームレスも経済格差も増やせない日本は、今度の金融危機による一層の経済困窮にどう対応していくつもりなのだろうか、と思う。これからもっと人々が苦しみ、もっと家庭や地域社会が崩れ、もっと猟奇的な事件が起きるのだろうか。

 金融危機対策に関しては、アメリカが大統領選に縺れこんでまごまごしたのに対して、ヨーロッパの対応は、それなりにスムーズに行った。それは、ヨーロッパが、多様な価値意識の共存、多元的なリーダーシップを、積極的に評価し取り入れ、多者共存の政治・経済体制を、戦後静かに積み上げて来ていたからだと思う。そして、それは、二つの大戦を起こし、多くの犠牲者を生んだヨーロッパになくてはならぬ、ほかに選択肢のない道だった。

 ヨーロッパの社会と日本社会を見ていると、これまで、私は、日本のほうが、ヨーロッパに比べて、文明の発展という点では、二周遅れている、と思っていた。一周目は「近代」というものの理解について、また、二周目は、機会の均等・市民による多元的な価値観を受容という点についてだ。
 一周目は、宗教革命以後啓蒙主義の発達とともに起こったヨーロッパの近代思想だ。時間的にも、背景としての価値意識においても非常に懸隔のある日本では、そこに追いつこうと思い立ったのが、やっと一九世紀後半のことだ。上滑りの大正デモクラシー、そして、戦後のアメリカのパタナリズムによる民主化は、「民主」とは口先だけのことで、民不在の、理屈だけの近代だった。そして、その状態は今も続いているし、それほどに長い間軽視されてきた「民」には、もう言上げしようという意欲もなくなってしまったかにみえる。

 二周目の機会均等意識と市民参加の政治については、欧米には、なくてはならない六〇年代の意識変革があった。それは、戦前の古い価値観で生きる親の世代に対する若者たちの反発として起こった。冷戦対立の緊張、核戦争勃発への危機感がその背景にあった。そして、それは、一周目における近代意識が人々の価値意識のベースにあったからこそ起こったことだ。
 カネや権力ではなく、人間性そのものを容認し、既成の価値観にがんじがらめになった世代に対しタブーを突き破っていく意識だった。近代主義の本質としての「人間性」の尊重、「良心の自由」とはそもそも何であるのか、ということを徹底して突き詰めた時代だ。

 しかし日本は、この時、経済成長の真っただ中、そして、冷戦体制の中では、完全にアメリカの属国として行為していた。だから、若者に危機感はなく、当時の教育、特に七〇年代以降の学校教育には、時事論争は皆無・無縁となっていった。

 今、金融危機とその後の動きを見ていてつくづく感じるのは、経済や産業グロバリゼーションの終焉、ということだ。そういう意味では、よかった、と思う。自由市場体制が、すべてを自浄していくという楽観が今度の危機を生んだ。多くの銀行に、国のテコ入れが必要となった。レーガンやサッチャーの時代には民営化が大流行だったが、今度は、それが、逆に国営化されている。けれども、この国営化は一時的なもので、決して、反動や逆行ではない。自由市場が「健全に」機能するための監督者としての役割を、これからの国は背負っていくしかない。そういう議論が今ヨーロッパではなされている。そもそも、国などというものは、民から離れて「実体」として何かがあるというようなものではなく、民によって築かれた「公」であるべきなのだ。そこが、日本ではいまだに理解されていない。こういう議論は、もう何十年も言われ続けているというのに、、、だ。

 今回の危機では、人々が、それも、経済界の専門家だとか、政治家だとかだけではなくて、一般の市民、小規模の投資家、年金積立者などが、自由市場経済の落とし穴に、大挙して気付いたのだ。文明史上の画期的な出来事だと思う。国がテコ入れするといったって、結局は、国民の税金だ。国は、大枚をはたいて、経営のずさんな金融機関の尻拭いをするのならば、もっとしっかり監督せよ、という話になっていく。 民が関与する監督、民のための監督、ということが、今回のことで、どれだけ日本人に伝わったのか、、、立場の違う知識人を集めて徹底的に議論をさせるような番組、新聞がない日本は、本当に危ない。

 何のための税金、何のための監督、ということが、市民一人ひとりの意識に上ってきていると思う。

 だから、この問題を、共和党と民主党の政治論争にすり替えたアメリカよりも、ヨーロッパの首脳や中央銀行総裁らの、知恵を集めた対策のほうが、はるかに先進的で、世界史に一ページを刻むような動きだったと思う。
 市民がともに、国の役割をどう規定していくのか、国境を超えた国家間の共同、多国籍企業の動きに対して、市民はどう影響を与えることができるのか、、、ヨーロッパは、いま、確実に第三周目を走り始めている。

 日本はといえば、この三周のいずれもに、大幅に遅れをとっている。一周目の理解ができていないことが、二周目の理解を遅れさせ、それらがまた、三周目で、大幅な遅れを生んでいるように思えてならない。

 「日本は」と言った。「日本という国は」というつもりだ。なぜなら、日本にもまたそういうことに気付いている人たちが数は少なくても確実にいると思っているからだ。

 では、どうしたらいいのか、、、、三周の遅れを一気に取り返すにはどうすればいいのか、、、、

 「世界人権宣言」や「子どもの権利条約」を字義どおりに、たてまえでなく本気で実現してみることだ。法律というものの重さを、本気で議論してみることだ。人間の根本問題はそこに集約されている。法律を、「あれは建前で、、、」などと言っている間、人間の最も大きな落とし穴である<傲慢><強欲>が、社会を蝕んでいく。日本のリーダーたちはあまりにも長く、人間にはそういう醜さがあるのだということに目をつぶり続け過ぎてきた。外国人相手にテロ対策をやるのなら、まず、国内の暴力団を一掃することからはじめるべきだ。


 日本のように、西洋型の近代化を達成できなかった国は、世界に数多い。むしろそのほうがはるかに多い。その中でみると、日本は、ある意味では、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの開発途上国では比べ物にならないくらい、近代意識を理論として理解している人たちがたくさんいる国だと思う。だからこそ、マス・メディア、各界の専門家などのリーダーの活躍に、今こそ期待したい。

 遅れた近代化・産業化によってお茶を濁した疑似近代というゆがみやいびつさが生む社会問題は、必ずや、近い将来、中国、インド、など様々の国で露呈してくると思う。上からの指導、産業優先の競争主義の近代化は、必ず、社会不安を生む。その時までに、もしも日本が、今直面している問題を賢く乗り越える道を描けていたら、それは、他国にとって有用なモデルになるだろう。

かつて、スウェーデンやオランダが、モデル国としての誇りをもったように、日本にも是非そうなってほしい。