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2008/11/19

自己肯定は他者肯定から

 ラッシュアワーの国電の駅。通勤者の波は人の波とは思えない。まるで、牛馬が牛舎から吐き出され柵に囲われた牧場に向かっているかのような光景だ。そして、夕方にはまた、狭い牛舎に詰め込まれるように、波に乗って小さな電車にきれいにおさまっていく人の群れ。誰一人として望んでそうしているのではないことはわかる。そうしなければ生きていけない社会が、人々に立ちはだかっているという事実が悲しい。
 たぶん、考えている余裕がないというより、考えると、自分たちのそういう姿があまりに虚しく、人間として疎外感だけが高まり、心の病になってしまうことを本能的に察知して、はじめから考えることを辞めてしまうしかないのだろう。週末や夕方、家庭や仲間とともに、少しでも人間らしい会話ができる人は、とりあえず、こういう通勤時間だけでも目をつぶっていればよいということなのかもしれない。しかし、そういうインフォーマルな社会関係を希薄にしか持っていない人々は、牛馬のように場から場へと移動し、どの場でも人としての心の触れ合いを経験することなく日々を繰り返すことになるのだろう。一部の性犯罪や痴漢行為は、まさに、狭い家畜小屋に閉じ込められた牛馬の本能的な行為を連想させる。

 そういうひとにとって必要なのは、おそらく、強制的にでも作られる人と人との触れ合いだろう。子どもの時から家庭にも学校にも人間らしい触れ合いを経験しないで育つケースが増えているらしい。大人になっても社会関係をうまく築けない人が増えているという。専門家に見守られたガイダンスのある社会性の形成は、今、日本では、大人の社会にも必要になっているようだ。

 日本人の自己肯定感が低いといわれる。しかし、それ以前に、他者を肯定するという態度が皆無なのではないか。 人は誰しも、誰か他の人に認められたいという欲望がある。そして、たった一人でも自分をほめてくれる人があれば、それが自分への自信に大きな弾みをつけてくれる。

 国電や地下鉄・私電の中でのありとあらゆるルール、それは、乗客を人間という頭脳をもった存在として信頼していないからに他ならないと思う。人間は、何も言わずに放っておけば、何をやらかすか分からない、自分では善悪の判断のできない存在である、つまりは、性悪説こそが公共ルールを作らせる理由なのだろう。

 もともと、他者に対して、肯定するとか褒めるという意欲はハナからない。そんな日本に「自己肯定感」などが育つはずはない。


 ある私企業の社内研修に行った。30歳前後の若い社員、それも、青少年期には、どちらかというと「できない子」「問題のある子」というレッテルを張られ、暴走族や非行に走ったような経歴を持っている青年たちだ。今は、小さいが、会社の目的に向けて力を合わせて仕事をしている、社員同士の温かい関係と、彼らの仕事の社会貢献への誇りが垣間見られる雰囲気のいい会社だった。

 研修の初日、私は、お互いに共同で何年も仕事を続けてきており、甘いも酸いもお互いに知りつくしているという、この会社の社員たち10人余りに、車座に座ってもらい、こう語りかけた。
「いまさら自己紹介などをしてもつまらないでしょう。なので、今、隣に座っている人を、その人が、この会社にいて、どんな点ですぐれているか、どういう点でこの会社に貢献しているのかを言って、他人紹介としてください」

 そうして、他人紹介が一巡したとき、この子たちの中の数人は、ほんとうに目に涙を浮かべていた。
 これまで、だれからも「褒められる」という体験をしたことがないのだな、と思った。

 「どんな人も完全ではない。みんな一人ひとりよい面も悪い面も持っています。でも、悪い面に目を向けるのではなくて、それにはとりあえず目をつぶることにして、良い面だけに注目してほしい。そうして、お互いの良い面を出し合うことで、何か協力的な雰囲気を生み出してほしいのです。」

 私は、そう、この若い社員たちに伝えた。

 その時以来、この会社では、定期的に集まってテーマを決めて仕事の話し合いをするほか、必ず毎回、ほかの社員を褒め合うということをスケジュールに入れたという。そしてそれだけで、会社の協力的な雰囲気、また、忌憚なくものを言える雰囲気がぐっと高まったという。

 日本人の自己肯定感が低いといわれる。若い者は黙っていろ、大人社会は厳しいものだ、他人の気持ちを推し量れ、空気を読め、謙譲になれ、生意気言うな、、、などなどの脅しの言葉を何度聞かされて日本の若者たちは成長してきているのだろう?自己肯定感が育たないのも無理はない、と思う。自己肯定感を本当に育てたいのならば、必要のないルールを一度外してみることだ。ルールを守らなくてはならない若者たち自身に、自分たちでルールを作るように促すとよい。そして何よりも、お互いに、お互いの良さをどこかに見出す努力をし、それを指摘し合い、他者を肯定する努力を促してみることだと思う。 信頼できる関係を、信じられない目に見えないものであっても、敢えて信頼し合う関係を作っていくことだと思う。

 日本には「謙虚」「謙譲」という言葉があった。それは、日本人の美しい徳の一つだと思っている人は少なくないと思う。だが、「謙虚」も「謙譲」も、一つ間違えば、責任逃れの甘えに転倒してしまう。それは、「謙虚」ぶっている側にも、それを他人に強いる側にも言えることだ。
 思っていることを堂々ということ、反対されることが分かっていてもあえて自分の考え・生き方を示していくことのほうが、はるかに厳しく難しい。しかしそれでも、その方が、自分の生を自分でコントロールしている、自分は自分の人生を自分自身でデザインしながら生きている、という実感をはるかに豊かに与えてくれる。