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2008/11/18

殻を破る、、、「らしさ」からの自由

 よいのか、悪いのかはわからない。ただ、他人の期待通り、予想通りに行動することがいやだった。あまのじゃくというだけのことだ。いつの頃からなのかはよくわからない。何か、自分が外から想像されている人々の予想を「裏切って」行動する、そうすることで「えっ」とか「はっ」という表情が相手に瞬間に見え、それがその人との少し立ち入ったコミュニケーションのきっかけになる、というかかわり方が、いつの間にか知らず知らずのうちに自分の中に育って来ていたようだ。

 男の兄弟がいなかったから「女の子なのだから」という縛りを受けずに育った。「女らしく」という役割期待がわたしには初めからなかった。
 大学にいたころ、特に、大学院に進んだころは「研究者の卵」という外からの役割期待と、自身の現実のギャップに耐えかねて、とうとう、そういう肩書から逃げ出してしまったのだと思う。
 外国に暮らし「日本人だからきっと」といわれる視線を感じるようになると、「普通のありきたりの日本人」として振る舞うことを意識して避けてきた。

 「主婦」であるという以外、何の仕事もできなかった長い年月、どうしたら普通の主婦でない主婦になれるかを考えていた。そういう、他人が見たらつまらぬことにエネルギーを注いでいたようにも思う。同じことは「母親」という立場になってもそうだった。子どもたちに、母親らしくない母親、既成の母親像にとらわれない母親になることで、彼らにとってほかには例のないユニークな、彼らだけの母親になりたい、と考えてきた。

 人に言えば笑われるようなこだわりだったと思う。実は、こだわりというほどの自覚は自分にもなく、ほとんど習性のようにそういう行動を選んできた。性格なのだろうと思う。でも、やっとこの頃になって、自分は、ただただ世間というものが漠然とこちらにむけて期待をかけてくる「らしさ」から、自分自身を解放して生きていたかったのだな、と思い至った。

 同時に、思い返してみると、私にとって大事な人たちと出会いのほとんどは、そういう相手の無意識の期待を裏切るような私の言葉や態度に「はっ」としてくれるその瞬間から生まれてきたものがほとんどではなかったか、という気がする。そして、それらの出会いは、そういうものであっただけに、いつも、日本人であるとか、外国人であるということが、はじめに邪魔をしない関係の始まりだったことが何より幸いだった。

 お互いに、「らしさ」というような役割期待にとらわれることなく関われることの嬉しさ。人と人との心の出会いは、そういうことから始まるのではないか、と思う。

 それでもつい最近まで「殻を破れ」と言われることがあった。「らしさ」から逃げ出してはきたものの、自分はそれでもそうやって自分とは違う自分を演じたり自分自身を防衛してきたのかな、と思う。あるがままの自分に心地よくしていられるというのは一通りの易しさではできないものだ。
 「らしさ」や「殻」は、自信を失っているとき、自分自身に迷っている時にひょいと顔を出してくる。