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2008/11/29

寄らば大樹の、大樹なく

 民主主義の対極にあるのは独裁者による全体主義、というのは中学生でも知っている常識だろう。

 戦前の日本にはその全体主義があった。独裁者だったのかどうかは別として、一応、天皇がこの時代の最高責任者だった。
 戦局が悪化し、二つもの原子爆弾が投下され、武器を持たない多くの市民が犠牲になった挙句、天皇は敗戦を宣言し、天皇の神格は、その日、終わりを告げた。
 今、天皇家は週刊誌や本でさんざんにバッシングを受けるようになった。この天皇が神格者として崇拝されていたことを記憶している人も、もうほとんどいないのだろう。

 独裁者はいない。だが、終わっていないもの、、、それは、日本の全体主義だ。

 誰からも「従え」と言われず、誰からも脅迫されるわけでもないのに、みなが、倣うべき「右」はどっちなのだろう、といつも自身ではない何者かを頼りに、つき従い、同調しようとアンテナを張って暮らし、働いている。言葉にされない社会的圧力が仕事場にも私的領域にも感じられるのだろうか。あてこすり、いじめ、お仕着せ、、、言葉にならない圧力をいち早く察して、摩擦をさけ、平穏に事を済ませようとするうちに、ことあげしない人々は、いつの間にか、みんなで全体主義の社会を支える羽目になっている。しかし、目の前の平穏は、実は、日本人ひとりひとりの幸福を内側から崩し去り、日本という国の未来の基礎をガタガタに覆すものなのだ。気づいていてもどうにもならない社会に大人たちも生きているというのか、、、、、でも、そうだから、未来を生きていかねばならない子どもたちが、未来の社会に希望を持てずに悲鳴を上げているのではないのか、、、

 人々の感情を扇動するようなカリスマ的な政治家は、どこのどんな文化背景を持つ社会にも時として現れるものだ。ポピュリズムという大衆扇動の政治は、状況次第で、どこにでも生まれる。それほどに、人間とは力なく、外からの圧力に左右されやすい。
 けれども、たいていの国には、そういうポピュリズムの危うさに敏感な有識者やメディアが、市民の理性に訴えて、このポピュリズムの蔓延を防止しようと動き出すものだ。しかし、なぜか、日本には、そういう有識者やメディアの力が圧倒的に小さい。有識者やジャーナリストまがいが、自ら進んでカリスマ的な人気を求めて、政治も社会的事件も娯楽番組化してしまう、お祭り騒ぎのテレビに登場する。ポピュリズムに対して論理で戦うべき有識者自身が、自らポピュリズムの力、大衆からの人気取りに屈しているように見える。

 日本人の教育程度は、今でも世界でもトップクラスだ。それなのに、いったいどうしたことだろう、、、

 寄らば大樹のつもりでいても、そこには、寄っていく大樹のような独裁者さえもいないというのに。

 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という言葉が心に響く。しかし、その「自由」の意味をすら、ひょっとすると日本の大人たちの大半は本当には知らないし、学校でも知らされたことがないのではないか。