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2008/11/29

性は明るい日の下で

 今日11月29日付の読売新聞では、ブラジルで開かれていた「第3回児童の性的搾取に反対する世界会議」で採択された「リオ協定」により、今後、インターネットや携帯電話での児童ポルノ、また、過激な性的描写をしているアニメーションなどに対する規制の対応が強化される見込みで、この対応については遅れていることで知られる日本が、今後国際的な圧力を受けることになるだろう、という記事が発表されていた。

 いじめ、不登校、未成年の自殺、未成熟な子供たちによる殺人、その後の更生教育の不在、など、日本の子供を取り巻く環境はきわめて劣悪だ。そのうえ、上のような記事を読むと、日本の子供たちの生育環境の貧しさに、目を覆ってしまいたくなる。

 日本という国には、世界中の産物が集まってくる。東京には、世界中のありとあらゆる国のレストランがあるという。現に私自身、品川駅の構内のスーパーマーケットで、私が住むハーグ市特産のキャラメルを目にした時には、さすがに口をあんぐり、驚いた。以来、オランダから帰国するたび、いったい何をお土産に日本に持って帰ったらよいのか悩んでしまう。そんな風に、物質的には世界中のものが「何でも手に入る」の日本だというのに、なぜか無いのが「世界の常識」。子どもの権利、未来を支える次世代の人権を守るという意識だ。

 性意識の解放は、欧米にもそれほど長い歴史があるわけではない。
 数年前に、オランダの主要全国紙の一つであるNRC紙の出版局が、「70年代の映画シリーズ」と題して、当時ヨーロッパで作られた話題の映画のコレクションを発売した。12本にまとめられた代表的作品には、ドイツ、フランス、スウェーデン、スペイン、イタリア、トルコなどの映画が含まれ、70年代のヨーロッパで、何が人々の意識を捉えていたのかがうかがえる。
 そこに、共通しているテーマのひとつは、当時の人々の性意識変革への意欲ということだ。当時、ヨーロッパの人々は、西側の消費社会の腐敗、鉄のカーテンの後ろに垣間見る核戦争勃発への恐怖、古い価値観としての教会主義、産業社会モデルの学校、家庭や仕事場での権威者のタテマエなどをやり玉に挙げ、見るものを不快にさせたり、居心地を悪くさせるような、タブーへの切り込みをテーマに、ごつごつと映画を作っていた。
(Bergman, Fanny och Alexander(スウェーデン)、Blier, Les Valseuses(フランス)、Goretta,
L'invitation(イタリア)、Saura,Cria Cuervos(スペイン)など)

 性意識を解放するには、そういう、常識ある人々から顰蹙を受けることを覚悟した、かなり勇気のあるアクションが必要であるらしい。

 性意識をただ解放すればよい、とはもちろん私も思ってはいない。しかし、性の問題について話し合うことを日陰に追いやっている限り、倒錯した性の犠牲になっている人たちの声は聞こえてこないばかりか、人間として最も根源的な性の問題を社会的圧力によって抑圧してしまうのではないか、と思う。性を社会的悪として抑圧することは、人間の生そのものを社会的悪として排除し抑圧することに他ならない。

 冒頭に、「児童ポルノ」の問題を挙げた。
 「児童ポルノ」の問題は、子供たちにとっての人権保護の問題だ。しかし、意識変革を求められているのは大人の方だ。性教育が先進国のなかでも著しく遅れている日本では、実は、大人たちが、まず性的に解放され、その問題を、日の下で論じられるようにならなくてはならないのではないか、大人たちにこそ性教育が必要なのではないのか、と思う。
 今度のリオの世界会議のように「日本が遅れている」といわれることは、とりもなおさず、「日本の大人たちは子供を性虐待の犠牲にしても平気でいるらしい」と言われているのと同じことだ。そういう汚名を着たままで恥ずかしくないのか、、、のほほんと、「最近は日本のアニメが世界でも人気らしい。日本にもいいものはあるんだ。」などと悠長に自己満足に浸っている場合ではない。

 この新聞記事の最後の一文が、「今回の世界会議による協定は、国際条約ではないため法的拘束力はない」と書かれていたのに、私は、ひどく落胆した。早くも抜け道を探しているような表現ではないか。カエルが浸かった水をぬるま湯にし、徐々に温度を上げていけば、カエルはその変化に気づかぬままにその水から跳ね逃げてしまうこともなく死んでしまう、という。しかし、今の日本人は、ぬるま湯どころか、相当な温度になっている水の危険に気づいていないのではないのか。その証拠に、こんなにもたくさん、心を病んで苦しんでいる人や子供がいるというのに、「それも仕方がない」としか考えない大人たちの方が圧倒的な数ではないか。

 では、オランダでは、性教育はどう行われているのか。最近「オランダ通信」で簡単にまとめた記事があるので、関心のある方はそちらを見ていただきたい。
 性教育は、人間関係、人間理解の教育だ。男女の性の仕組み、避妊などについても当然学ぶ。しかし、決してそれがすべてではない。人間が、心だけではなく、からだを持った存在であること、男に生まれ、女に生まれることで、あるいは、同性愛、性倒錯の条件のもとに生まれることで、自分の理性や判断だけでは、時として制御し難い状況が生まれる可能性があるのだ、ということを冷静客観的に学ばせる。そうすることで、人間が、人間自身の体と心にとって凶器となる危険を持った存在であることを学ぶ。同時に、体の仕組みを理解することで、本来、人間には、肉体の制約を超えて、高い精神を持った愛情を築くことができる能力が備えられていること、人間の社会性とは、この肉体の持つ制約を超えて培われるものであるということを、現実から目をそらさずに教えるのが性教育だ。

 日本では、数年前、性教育をどこまでやるのか、やらないのかで、少し政治論議が行われた、と記憶している。その折に、ある保守派の女性政治家が、「性教育などをしたら、子供たちの性交年齢が下がって、望まれない妊娠が増え、風紀が乱れる」とかなんとか尤もらしい理由をつけて、議論を一蹴したと記憶している。浅はかな議論とはこのことだ。望まれない妊娠と堕胎は、そういう風にしたり顔の女性政治家が嘯いている日本の方がはるかに比率が高く、性を日の下で子どもの時から語っているオランダの方が圧倒的に低い。一般に、男性優位の伝統を残している国ほど、性暴力や堕胎数が多いというのは、世界の常識だ。

 本来、性の問題は、女性の人権と深くかかわって論議される。なぜなら、乱れた性の犠牲になるのは、ほとんどの場合女性たちだからだ。だから、性の問題を明るい日の下に持ち出し、男性たちを含め、女性の体がどういう仕組みでできているのか、女性の性が暴力の対象となった時に女の肉体と精神がどのように取り返しのつかない傷を受けるのか、を公共の場でしっかり論じておくことは、人権問題の基本なのだ。女たちの体が安全に守られていてこそ、多くの子供たちは、自分自身がほんとうに愛情のある関係から生まれ、愛情のある家庭で育てられ、未来の社会を支える次世代として健全に育てられていることを確信できよう。

 そんなことに思いをはせることもなさそうなこの女性政治家は、きれいなスーツに身を包み、すまし顔で、「私は育ちが良いので、そういうことは口にすることもできません」とばかりに、性の議論を日陰に追いやってしまった。男たちを仕事の戦場に駆り立てて、自分は、流行の衣服や靴に身を包み、何時間も高いレストランや喫茶店でおしゃべりに興じている主婦たちは、カネやモノではなく、心からの夫との信頼に満たされているのか。妻を、女を、「金」の力で組み伏せている男たちの心は、本当に人間として満たされているのか。性の問題は、やはり、その被害を最も被る可能性のある女たちこそ、口を開いていかなければ本当の議論とはならないのではないか、と思う。

 医学部に通う娘の同級生で、学生アパートの同居人は、全国の医学生から成る性教育振興クラブに属している。オランダの学校は、小学校から中学まで、これでもか、これでもかというほど、たびたび性教育をしてくれるが、中には、人員不足で十分に手が届かない学校もあるらしい。また、非西洋社会を背景に持ち、家庭でも、「性」の問題があまりオープンに語られることのない移民の多い学校などでは、最近、そういう子供たちにどういう性教育をすればいいのか、という悩みもあるらしい。
 この学生クラブのメンバーは、学校からの依頼に応じて、国のカリキュラム研究所が作った教材をもとに、学校訪問をし、子供たちに、性教育の授業をしている。また、それらの学校の教職員チームに性教育実施の研修もやっているという。皆、20歳前後の若い、独身の学生たちだ。イスラム教の背景、アフリカやラテンアメリカなど男性優位の伝統をもつ社会からの子供たちに、どういうアプローチをするか、ということも、教材の中では考慮されている。

 2年ほど前、ある中国系の女子中学生が、誘拐されて性暴力を受けるという事件が起きたことがあった。数日間行方不明だったが、その中学生自身が相手を凶暴にさせないようにコントロールしながら、隙を見つけて無事に救出された。救出後間もなく、この女子中学生は、テレビで事件の経過を報告していた。性的な暴力を受けた後であれば、どんなにか、精神的な痛手が大きかっただろう、と予想しながらその様子を見たが、画面での彼女の様子は、実に落ち着いていたし、経過を冷静に伝えていたのに、私はひどく印象づけられた。
 自分が性暴力の犠牲になったということを、こんなにも客観的に冷静にとらえることができるのか、と感心した。インタビューする側も、「興味本位」の質問をしないし、かといって、その女の子に「気の毒に」というような安っぽい同情を与えるのでもない。「性」へのかかわり方が集団の文化として成熟した社会があるのだ、と強く印象づけられた。

 日本では、最近、高学歴の女性たちの孤独が目立つ。
 良い学歴もあり、仕事もできるが、異性と過ごすプライベートな時間がない、結婚して子供を持つという未来が描けない、残業残業で家庭を顧みることもできない男と結婚しても本当に幸せなのだろうかと悩んでいる、高学歴の自分に見合う男性は自分よりももっと高学歴でなくては、というつまらぬタテ社会の既成概念に縛られている。男も女も、そういう悩みの中で、自然な肉体の欲求を持て余しているのではないのか。欝になったり、引きこもったりしている男や女たちに、心と体を解放できるプライベートな時間がないというのは、人間として、不幸極まりないことなのではないのか。

 数日前に発表された、博報堂の「家庭調査2008」によると、この20年間で、家庭の時間を持ちたいと考えている人の数は、夫の方が圧倒的に増えたのに対して、妻の方は、ずっと減少してしまったという。これは、一体どう解釈すればいいのだろう。
 一概に、ワークシェアリングなどの恵まれた労働条件のない日本では、夫が外で働き妻は家を守る、というパターンがまだ主流であるのだろう。そういう前提で見てみれば、不況に続く不況の中で、夫たちは、いよいよ激しい競争と労働条件の中に追い込まれ、その疲労の度合いは限界を超えているのではないのか。勤労の緊張を解き放ち、人間が「働くために生きるのではなく、生きて、元気な子供たちを育み、そのための環境としての充実した家庭を守るために働く」ものである、ということを思い出させてくれるのは、家族と過ごす時間であるはずだ。身を粉にして働かされている男たちが、家庭でやすらぐ時間を持つことで、自分の仕事の意味を見出したくなるのは当然のこととうなずける。できることなら、家事を分担し子供との時間をもっと持ってみたい、と思っているのだろう。だが、そんな夫の気持ちを理解している妻たちの数は、今、激減しているという。日本の夫婦の間にぎすぎすした関係が増えているように思われ哀しい。そうではない生き方があるはずであるのに。そうではない生き方は、西洋ばかりでなく、開発途上国を含め、多くの、スローな社会に、物質的にはずっと貧しい人々の暮らしの中に生きている。
 この博報堂のデータからは、単に、夫が家庭的になったというような薄っぺらな解釈ではなく、家庭的になりたくても、以前にも増して家庭での充実した時間を持つことがますます難しくなっている、という男たちの悲鳴をこそ読み取るべきなのではないのか。

 働き蜂のように働いても何の疑問も感じなかった団塊の世代。離婚、別居、家庭内離婚、家庭内暴力を体験した世代だ。今、その世代の子供たちが、どうやって家庭を築いていいのかわからず、うつ病や統合失調症に、そして、愛情の薄かった親たちとの生活のトラウマに悩まされている。

 金融危機で不況の打撃はまたしても大きい。しかし、それでも日本は、まだまだ豊かな国だ。少しスローダウンしてみれば?? そして、性や、ひいては、人間愛の問題を、もっと明るい日のもとにおいてみんなで話題にしてみてはどうだろう。そのことに、少し勇気をもって口を開いていかなくてはいけないのは、女たちの方であるかもしれない。「育ちの良い、身だしなみのある、すまし顔の」女を演じることは簡単だ。その方が、今の日本ではずっと生きやすいにちがいない。でも、敢えて勇気をもって、性について男も女も一緒にオープンに語る場を、できることなら女たちの方から作り出していくべきなのではないのか。「育ちの良い、身だしなみのある」女も、性と無関係に生きられるはずはない。

 元来、人間愛、子生み、家庭につながる性の問題は、暖かい「生」そのものの問題だ。

 暖かい「生」を取り戻すことは、それを失って、未成熟で、判断の力もおぼつかない子どもたちから、彼らの温かい「性」を乱暴に奪っている今の日本という社会に、もう一度希望を取り戻し、未来の日本が力強く息を吹き返す基礎を作ることに他ならない。