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2008/11/29

人間の数と同じだけある「良心」

 その著書に感銘を受けてどうしても会わずにおれず尋ねていったオランダの教育学者。しかし、その人は、ある日本の学校の「古い」タイプの、私の目には「権威主義」としか見えない教師を映したドキュメンタリー映画に感銘を受けていた。
 個人主義が究極まで行きついたオランダのような社会で、その人は、教育学者として、子どもたちに、集団として生きること、自分ひとりの勝手な利己的な意見を主張するだけではなく、他の人の意見も受け入れて共に生きる調和的な社会を求めていた。それだけに、権威主義的であるとはいえ、子どもたちの訴えに耳を傾け、最後には、子どもの言い分を聞きいれ、惨敗を認めたこの映画の中の教師が、個人主義の進んだオランダではありえない存在、パートタイムの職業と化し学校の中だけで表面的に事を済まそうとする教師たちが増えている今のオランダの学校には期待できないことに見え、深く感動したらしい。
 しかし、その同じ映画を、私は、嫌悪の感情でしか見ることができなかった。なぜなら、私は、日本的な、個人の自由意志や自立を認めない集団主義に心から嫌気がさしているからだ。日本の学校には、私生活を投げ打って子どものために尽くす教師がいることを知っている。しかし、その映画の中の年配の教師は、まるで、子供に対して軍隊の隊長ような言葉づかいをしていた。その権威主義的な教師が、いうことを聞かない子供に対して、授業の成果としてのイベントに他の子供と共に参加することを禁止した時、他の子供たちは、必死になって、禁止を撤回するように教師に訴えた。その間、この教師は、腕組みをしたまま、子どもらに目を合わせるどころか、目をつぶって天を向いていた。そういう教師を、下から恐る恐る見上げている子供たちは、目に涙さえ浮かべている。 とんでもないことだ、と私は腹が煮えかえるような気持ちがした。

 一体全体、学校という、子供たちにとっては一日の大半を過ごす「生活」の場にあって、どんな理由があるにせよ、子どもの方が涙を流して教師に訴えなくてはならない理由がどこにあるというのだろう。
 大人が、人生の経験者として「権威」を持って子供たちを導かなくてはならない、というのはわかる。子供たちが、勝手に育つのをよしとするような自由放任は、私も望んではいない。だが、腕組みをして顔を天に向けたまま、子供たちが求めている真摯なコミュニケーションを阻むように「目をつぶって」しまう教師など、私はやはりご免こうむりたい。

 オランダのその教育学者が感銘を受けた映画について、私が真っ向から反対の感想を述べた時、この人は、はっと思ったらしい。彼の映画の記憶の中には、腕組みをしている教師が目をつぶって上を向いていたことは残っていなかった。子供たちが涙を流して訴えていたことも。それよりも、一人の子どものために教員に一致団結して訴え続けた子供たちの姿と、万事ことが終って、教師と子どもが仲睦まじく何事もなかったかのように学習の成果を一緒に愉しんでいる様子、そして、教員が子供たちへの「敗北」を率直に認めたことだけが、彼の記憶に強く残っていた。

 自分にとって気がかりなこと、日頃から意識に上っていること、答えを求めて問い続けていること、、、人は、それらによって、自分が見聞きするものから、無意識のうちに情報を取捨選択している。だから、同じことを見ていても、頭に入ってくる情報や考えることが様々に異なる。

 そんな話をしていたら、ある友人がこんなことを話してくれた。
 3人姉妹の末娘、母子家庭で育ったその友人は、豊かではなかった家庭で、母親との関係に様々の苦労があったという。また、3姉妹の関係も、それが原因でぎすぎすとしていた。その母親が90歳を超えて亡くなった後、何年もの隔たりを超えて、3姉妹は一堂に会し、母の思い出話をした。その時に、同じ出来事について、3人が全く別の感情を持って記憶に残していたことに、3人とも初めて気付く。何十年もの長い間、それぞれが自分の心に描いていた母親像は、3人3様にとても違うものだった、という。幸いこうした時間が持てたことで、長い間の誤解が解け、3人がやっと理解し合えた、と彼女は言った。興味深い話だ。

 モノの考え方は、文化の違い、時代の違いによって決まる、などと、したり顔の文化人類学者などがよく言う。確かにそういう面はある。しかし、人間の考えは、そんなに簡単に、分類されるようなものではなかろう。多様な価値観が限りなく広がり、人の交流、情報が飛び交う今の時代、文化的アイデンティティや時代の意識などでくくられる価値観をもう少し超えた意識への考察が大切なのではないのか。文化や時代といった大雑把な価値観の枠組みのほかに、わたしたちの考え方には、個人としての経験や関心、問題意識の違い、その社会の中での自分の立場の違いなどが、大きく反映している。

 「良心の自由」という言葉がある。基本的人権の一つだ。

 「良心の自由」を説明するのに、西洋では、よく漫画などに出てくる右肩の「天使」と左肩の「悪魔」が使われる。「天使」と「悪魔」がどんな顔をしているか、それは、人一人ひとり異なる。ある人の天使と悪魔は、他の人の天使と悪魔とは違う。「良心」とは、すべての人が、一人ひとり、自分が、それまで生きてきた時代や、生まれ育った場所、独自の経験、問題意識などによって、自然と作り上げてきた、ひとまとまりの善悪の判断基準のことだ。だから、「良心の自由」とは、一人ひとり異なる善悪の判断基準を、互いに尊重せよ、ということだ。

 その自由に唯一縛りをかけるのは、人間の命を傷つけたり、それを持って人間の社会の安定を転倒させたりする行為が伴う時だ。それは、テロリズム(暴力)と呼ばれ、民主主義の安寧を覆す最も大きな敵対者だ。それは、「言論の自由」「表現の自由」「信条の自由」など、他のすべての基本的人権としての「自由」にたいする縛りだ。

 「良心」は、すでに死んでしまったものも、今生きているものも、これから生まれてくるものも含め、人間の数と同じだけある。