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2008/10/18

あの時すでに

 5歳の時に、生まれた下関を離れ、福岡に暮らし始めた。
 同じころ、お向かいの空き地に大きなバレエ教室が建った。バレエを教えていたのは、当時、50歳を過ぎていたH先生だった。土曜日の午後になると、「アン、ドゥ、トロワ」とフランス語で拍子をとりながら声をかけて指導しているH先生の声が近所に響き渡った。水曜日の午後、H先生は、タイトなワンピースドレスに身を包み、きりりとしまった脚にハイヒールを履いて、つばの広い大きな帽子をかぶって、電車に乗って近郊の都市のバレエ教室に出かけておられた。
 ご主人のほうは、ちょうど60歳。毎日、夕方になると、自転車にまたがって、当時、そこから数キロのところにあった米軍基地のバーにジャズピアノを弾きに行っているとのことだった。日本人離れした、鼻筋が通って彫りの深い顔立ちと、オールバックの髪、上品な物腰が、子供心にも、近所のどのおじさんとも違う雰囲気だな、と感じていた。  

 母は、そのころ、自分の父親(私の祖父)にねだって私たち姉妹のためにピアノを買ってもらっていた。そして、私と姉二人は、H先生(ご主人のほう)に母が頼みこんで、ピアノの家庭教師をしてもらうことになった。こうして、H夫妻と私たち一家の長い長い交流が始まった。

 H夫妻は、「引揚者」だった。戦前から、中国大陸にすみ、北京の近くに邸を構えて、御主人は、日本の放送局の専属ピアニスト、奥さんのほうは、当時は、ピアニスト夫人として何不自由ない豊かな暮らしをしていたという。北京の自宅には、広い庭園があり、初夏になるとライラックの花に溢れていたという。外交官の子として育った夫人は、小さいころから、絵、バレエ、ピアノ、フィギュアスケートなどの稽古事をしながら成長し、何度もフィギュアスケートの大会に出て賞をもらった、と話されていた。

 そんな生活が、ある日、ロシア軍の南進で一気に壊される。放送局のグランドピアノは、目の前で木っ端微塵に砕かれ、大きな家も調度品も衣類も、何もかもをあとに置いて、ただひたすら祖国を目指して引き揚げるよりなかった。
 やっとたどり着いた祖国は終戦後の混乱期。身を寄せたご主人の実家の座敷で、生活のためにバレエ教室を始めたのは、奥さんが、40歳を過ぎてからだったという。ご主人のほうは、何もかもを失って日本での再起を余儀なくされた時、まず、奥さんを誘って「英語を勉強しよう」といったという。それから、高校の音楽の教師になった。
 我が家の前の空き地にバレエ教室が建ったのは、それから、およそ10年あまりの後、ご主人が教師を退職し、退職金と、それまでコツコツと貯めてきた貯金を資本にしてのことだった。

 その後受験勉強のために姉たちはほどなくピアノの稽古を辞めてしまったが、小学校1年生になったばかりだった私は、毎週土曜日のおけいこを楽しみに待つようになった。決して叱ったり脅したりすることなく、穏やかに、ぽつりぽつりとアドバイスをするだけのH先生のお稽古は全く苦にならなかったし、何か、ホッとするような安心できる時間だった。お稽古が終って、先生がさらさらと引き流される曲は、いつも、軽い即興の入ったジャズピアノだった。20歳の成人式を迎えた時、脳溢血で先生が倒れられるまで、レッスンは続いた。
 私たちが稽古を始めて2,3年の後、先生も新しいピアノを自宅に購入され、レッスンは先生の自宅になった。うわさを聞いて生徒が集まるようになった。ピアノの生徒たちは、稽古の順番を待つ間、バレエ教室の片隅のストーブのそばに座って、奥さんが指導されるバレエを目を凝らして見つめていた。当時、まだバレエを習う子などあまりたくさんはいなかったから、珍しく、興味深かったのだろうと思う。

 こうして、何年間も、私は、ただ、ピアノの教室に通って、そばから二人の様子を見ていただけだった。たまに、ご主人のH 先生と趣味の写真の話などをしに行く父についていき、先生夫妻の庭の、うっそうと灌木の茂る緑陰で、進められたジュースを飲みながら黙って大人たちの話を聞くことはあっても、自分から夫妻とともに話に加われるようになったのは、ずっと後になってから、たぶん、高校生くらいになってからだと思う。

 でも、こうして、夫妻のそばで育ったことが、私の人格形成にどれだけ大きな影響を与えてきたか分からないと思う。
 二人とも、他人のことをとやかく噂したり、批判したりするようなことは一度もなかった。自分の生き方をしっかりと持ちながらも、だからと言ってそれを人に押し付けるような素振りをされることは決してなかった。そういう二人の姿は、周囲の人の目には、大変日本人離れしたものではなかったか、と思う。近所づきあいがうまいわけではなく、周りの人たちは、どちらかというと「付き合いにくい」という人のほうが多かったようだ。でも、今になって思えば、たぶん、話してわかってもらえるようなことではない、という気持ではなかったか、と思う。戦前・戦時中のことでも、人が聞かない限りは、自分のほうから自慢げに話されるようなことは絶対になかった。

 自分の力、自分の能力を、そしてたぶん、人間だれしも限界を持って生きているのだ、ということを実感として知っていた人たちであったのに違いないと思う。そして、いつも、日本の社会を、外から眺めているようなところがあった。そうでありながら、他人を見下したり、馬鹿にするような態度は、決して見せられなかった。
 私が27歳の時、オランダ人の夫と結婚したいと告げて、父からほとんど勘当同然の扱いを受けた時、悩んだ母は、夫妻のところに相談に行った。その時に、H 先生の奥さんが、こう言われたことで、母はきっぱり決心がついたという。
「直子を翔ばせなさい。あんな丘のてっぺんのうちに閉じ込めていたって直子は大きくなれないわよ。 直子を世界に翔ばせなさい」と。

 H夫妻の頭の中には、たぶん、いつも世界地図があったのだろう。
私も、いつの間にか人生の半分を外国で暮らした。そんな今でも、どんなに世界の遠くに行っても、H夫妻のような心境にはまだなれていないのではないのかな、とよく思う。10数年余り前ご主人は92歳で亡くなられた。それまで、わたしは日本に帰国するたびに必ずH 夫妻を訪れた。でも、だからと言って、行った先々の話を自慢げにするようなことなど、先生夫妻の前ではできなかった。懐かしい昔話をし、外国人の夫と、外国人の間に生まれた二人の子供を連れてきて会わせると、それだけで、二人は、私たちを、家族のように暖かく迎え入れ、言葉が通じなくても、だれもが温かな気持ちになって、雑談をしながら何時間もそこで過ごすことができた。

 異文化に暮らすということが、ちっとも特別なことではなく、私の生きる場は日本などを超えて世界に広がっているのだ、ということを、わたしに始めて教えてくれたのは、このH夫妻に他ならなかった、と思う。