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2008/10/22

移民の底力

 オランダにいると「移民」(Alloctoon)という言葉をよく耳にする。それほど、移民同化の問題が、この国では論争の的になっているということだ。
 
 ところで、うちの家族で、夫だけは、れっきとしたオランダ人だが、娘と息子、そして、私は、「移民」なのか「外国人」なのか、という話がある。オランダが正規の統計を取る際に「移民」と定義しているのは、「本人か、親のうちの少なくとも一方がオランダ以外の国で生まれたもの」となっている。だから、日本人の母親を持っているうちの息子や娘も「移民」ということになる。オランダ王室の一族も、現ベアトリクス女王、前ユリアナ女王も、ともに夫君はドイツ生まれだったし、次期国王の予定のアレキサンダー皇太子も奥さんはアルゼンチン人、したがって、王室はほぼ全員「移民」だ。

 ただ、「移民」という以上、そこに根を張って暮らしているということが前提になる。

 私は、「移民」なのだろうか、それとも単なる「外国人」なのだろうか。

 長い海外生活で、いろいろなたくましい移民に出会ってきた。

 留学していたマレーシアで下宿したのは、元は、スリランカから来たヒンズー系タミール人の移民の一家だった。ご主人は、父親とともに来住した第1世代、奥さんのほうは、両親が移住してきた第2世代だった。私が下宿をしていた当時は、ちょうど二人の息子をイギリスに留学させていたころで、インド産の食材を中心とした雑貨店を営み、それに加えて、私ともう一人のインド人女性を下宿させ、その収入で、自分たちの生活と子供二人の学費を賄っていた。

 そのころのカンダヤ夫婦の生活といえば、贅沢をしない質実剛健そのもので、毎日決まった時間にキチンと磨き上げられた家の中には、埃一つなく、毎週火曜日には、家の中のすべての衣類・シーツを集め、白物は、すべて、裏庭にしつらえた焚火の上の大釜で煮沸消毒されていた。毎日の食事は、香料を石臼ですりつぶすところから、すべて一切の食料を原料から自分で料理して作っていた。

 雑貨店は、昼間は、御主人と丁稚奉公のラジャという男の子が店番をし、夕方になると、家事を終えてシャワーを浴び、さっぱりと洗いあげたサリーに身を包んだカンダヤ夫人が、店番を交代しに出かけていた。店に出る前には、必ず、家じゅうをお線香の煙で炊き締め、門口に座ってヒンズー教の讃美歌を歌うのが習慣だった。 ラジャのためには、給料のほかに、将来独立したときのためにと少額の貯金を続けていた。ラジャの家族に問題があれば、一緒に解決策を考えてやる。アルコール中毒の母親から守るために、弟を引き取っていたこともあった。

 毎日判で押したような生活で、娯楽といえば、水曜日の夜にある、延々3時間以上も続くインド映画をテレビで見ることくらい、贅沢とはいっさい縁のない暮らしだった。

 そのカンダヤ夫妻も、数年前にご主人が亡くなった。二人の息子は、オーストラリアに移住していき、そこでそれぞれ一家を構えた。マレー人が何事にも優先されるマレーシアでは、二人の将来はなかった。
 2年前、オランダに住む妹を訪ねてきたと言って、25年ぶりに私に会いに来てくれた。70を過ぎたカンダヤ夫人が、さっぱりとジーンズとTシャツ、野球帽をかぶって颯爽と門口に現れたのには驚いた。これが、あの頃、サリーを風になびかせてエレガントに歩いていた彼女か、と目を疑った。
 だが、心の中は今も同じ。夫が亡くなり、子どもたちがオーストラリアに移住していった後、大学病院で、ホスピスの患者を訪ねるボランティアをしている。図書館から本を借りて、ホスピスの患者のところに言って読んでやっているともいう。毎年一度はインドに行き、1か月を孤児院のボランティアで過ごす。孤児院への寄付を集めるために、マレーシアに帰ると、昔馴染みの中国人の知り合いに声をかけて、いろいろな人から募金を集めてくるという。
「直子、いいお母さんになったわね。うーん、このカレーなかなかいけるわよ。」とほめてくれる。
ふっとリビングルームを見渡しているカンダヤ夫人を見て、「どこにも埃を残してなかったかな」と背筋がひんやりしてしまう。
「直子、一度帰っておいでよマレーシアに。ラジャも待っているわよ。直子がいた時とはすっかり様がわりしたんだから、、、早く来ないと私死んじゃうよ」と優しい。

 カンダヤ家のような移民家族はマレーシアには多い。親が贅沢を惜しんで、子どもの教育にカネをかけ、しかも、子どもたちを、厳しくしつけて育てる。とにもかくにも、どこに行っても恥ずかしくないだけの学歴を身に付けさせ、世界のどこにでも行って生きる場を見出してくれるならどこにいてもかまわない、と親元にとどまることなど期待もしていない。
 現に、カンダヤ夫人の姉妹やその子供たちは、そのころから、スウェーデン、オランダ、カナダ、オーストラリアなど世界中の国々に散って暮らしていた。私が、日本から来たことなど、彼女たちにとっては珍しいことでも何でもなかったし、生まれた時から、タミール語と英語と、仕方なくなく公用語のマレー語を使ってトリリンガルで生活することも、当たり前のことだった。
 「ウィル・パワー」がカンダヤ夫人の口癖だった。

 
 10数年前に買い取ったフランスの片田舎、過疎地にある農村の家は、私たちの留守中、その近くのジャム工場で夜警として働いているポルトガル人が時々様子を見てくれている。同じ村に、彼が自分で建てた家があり、時々、その村まで来てくれるからだ。
 ジョゼは、15歳の時に、独裁政権下にあったポルトガルから、両親とともにフランスに移住してきた。そのころすでに石工として修業をしており、結婚するまでは、その仕事していたようだ。フランスやスペイン、ポルトガルなど、南欧の国の家は、昔は、その土地の石を切り出し、それを積み上げて家を作った。だから、家づくりには、昔から石工と大工と屋根師がかかわる。

 結婚してから、ジョゼは、フランス一大きなジャム工場の夜警となった。工場のすぐそばの社宅に入り、夜は、講堂ほどもある大きさの冷蔵庫などが何基も立ち並ぶ工場の夜警をした。奥さんもポルトガルの移民だ。小柄な体で三人の子を産み育て、それから、近所の大型スーパーマーケットの店長の家で家政婦として働いた。
 ジョゼは、夜警を本業にしながら、昼間は半分の時間を休息に使い、残りの時間を使って、およそ20年の間に、3軒の家を建てた。1軒目の家が、私たちの家と同じ村にあったのだ。
 石工の経験を使って、自分で設計図を引き、ブロックを積み上げ、屋根を据えて、内装を整える。
 どの家も、働いてお金を貯めては材料を買い、少しずつ立てていく、という方式だから、数年はかかっている。3軒目の家は、さすがに、年を取って、しかもビール樽のようにお腹が出ていていたから体を動かすのが億劫になったか、細かい仕事は業者を入れてやらせていた。その分、資金も必要で、時間も余計にかかった。

 最後の家は自分たちのために建てたもので、数年かかって完成したら、社宅を引き払って移ってきた。自動車修理場の裏地という、あまり人が買いたがらない土地を安く買い取り、川辺の立地を利用して、井戸を掘り、地下水を汲み上げてフロアヒーティングにした。地下水は暖かいので光熱費が安くて済む。くみ上げた地下水は、大きな庭の半分を菜園にし、トマト、キウリ、インゲン豆、ブロッコリ、玉ねぎなどの作物の自給のために使う。畑にしみ込んだ水がまた地下水となってリサイクリングされる、という仕組みだ。庭に放し飼いの鶏から新鮮な卵もとれる。

 車が2台ゆうに入る大きなガレージに、長テーブルを据えて、ある夏の日、私たち一家をバーベキューパーティに招いてくれた。大きくなった娘たちが、母親を支えて食卓を準備し、ホストのジョゼは、ワインで気分が乗ってくると、まるで、イタリアのオペラ歌手かのように、満顔に笑みをたたえて、ご自慢の声で一曲披露してくれた。学歴があるわけでも、恵まれた家庭環境に生まれたわけでもない。たった一本の腕ひとつで、そして、働き者の奥さんにささえられて、すべての財を自力で作り上げてきた人だ。

 とにもかくにも、3軒の家を建て、今は、2軒を借家にして収入源にしているが、いずれは、3人の子供のそれぞれに譲るつもりなのだろう。

 カンダヤ夫妻やジョゼ一家のことを思うと、自分など「移民」などと呼ぶのはおこがましいな、と恥ずかしくなる。

 「移民」と呼ばれる人たちは、生まれた国からみると、時に「棄民」と呼ばれるほどの事態から押し出されてきた人たちであることが多い。自分の生まれた国の、指導者たちが、自分が生きられる場を取り去ってしまっていることさえある。カンダヤ氏などは、5歳で母親から引き離されてマレーシアにきた。家族と別れ別れになってでも、生きられる場所に行けたことが幸福だと思わずにはおれないというような境遇の人たちなのだ。この人たちにとって、外国に出ることは、「選択」ではなく、それしかないオプションだったのだ。異文化交流なんて悠長なことを言っている人たちではない。同化は賢い選択、同化できなければ、不幸覚悟の事態だ。

 私などには、当然、疑ったこともない「帰る場所」がこの人たちにはない。この人たちの底力は、私などには想像の域を超えている。

 やっぱり私は単なる「外国人」、外から眺めて言いたいことを言っているだけの甘えた「外国人」だなと思う。でも、時々、異国に暮らすことが鬱陶しくなったり、些細なことで落ち込んだりした時には、この人たちのことを思い出すようにしている。そうして、カンダヤ夫人やジョゼ一家の地に足の着いた生活態度を見て、「なんだ、これくらい」ともう一度元気をもらう。