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2008/10/21

草の絮

草の絮輝きながら浮かみけり

涼しさや幾山越えし風にあふ

逝く水はゆき落椿とどまれる

 
 書家であり俳人でもあった母が遺した愛唱句だ。

 前妻の二人の娘を育てながら、ずっと後に母が生んだ私は母にとって自分の腹を痛めたひとりっきりの娘だった。それだけに、私に手をかけることは憚られた。おかげで、私は、長々と小言を言われたり、お説教をされるような目には一度も会わずに済んだ。おまえは、自分で自分のことはやんなさいよ、と言われているようなもので、その分、自由があった。私の幸いは、そういう境遇に生まれたことだ。

 母にしてみれば、自分の産んだ子なんだ、言葉でいちいち説明しなくても分かっているだろう、という気持ちがあったのではないか、と思う。

 私が小さい頃から、「お母さんはね、あなたがどんなに遠くに行っても全然心配などしていないのよ。遠くに行ったって、あなたが自分の子であることには変わりはないのだし、何をどんな風に考えるかなんてよく分かっているし信頼しているから大丈夫」としばしば言っていた。
 いつか、私が母のもとを離れて遠くに行くことを母は予測でもしていたのだろうか。女の子なのだから、そうなって当たり前、と思っていたかもしれない。それとも、遠くに行って羽を伸ばして生きてほしい、と心から思っていたのだろうか。あるいは、いつか娘が飛び立って行く日に、自分がうろたえた母を演じてしまわないようにと、そのころから、自分に言い聞かせて心の準備をしていたのだろうか。真意はどれなのか分からない、その時その時に、そのいずれでもあったような気がする。

 外国人と結婚し、アフリカの極地に行ってしまうかもしれない、と知った時、向けようのない怒りと失意で常軌を逸してしまった父のそばで、私の結婚に同意し、かわりなく励ましてくれたのも、この母だった。本当は、一人娘が奪われてしまう母にこそ、支えが必要であったはずなのに、、、

 長々と通い続けた大学は、この留学から帰れば就職の機会、研究者としての道も歩み始められるという寸前のところで辞めてしまい、両親の面倒をみるでもなく、家計を助けるでもなく、ましてや恩返しになることなど何一つせずに、これから老いていくという父母を顧みるでもなく、別に、言い訳になるような大義もないまま、ふわふわと夫について日本に別れを告げた私は、まさに、タンポポの綿のように、この上なく頼りない存在だったのに違いない。
 「あなたの手紙を受け取ったのは金木犀の薫る庭、やっと生涯の伴侶を見つけたのだと、うれしかったです」というのが、夫と結婚したいと告げた時に最初に母がくれた手紙だった。同じ状況に私がいたら、果たして、こんな言葉を娘に言えただろうか、と思う。

 後になって、冒頭にあげた母の「草の絮」の句の存在を知った時、ああ、これはあの時の句だな、と思わずにいられなかった。

 その草の絮は、ほんとうにずいぶん長い間ふらふらと宙を浮いていた。その間、果たして、ずっと輝き続けることができていたのかもほとんど確信はない。父も母も亡くなり、ようやくこの数年になって、絮は疲れて着地し、少しだけ、土壌に根を張る気分になってきたらしい。父や母には、生きている間、どれだけ歯がゆい思いをさせたことだろう。

 けれども、救いは、母が二番目の句を作ってくれていたことだ。
 物事には時間がかかるものだ、ということを母は知っていた。母の人生を思い返してみる。母自身、目指していた理想はあった。でも、最後は、それが自分に課してきた無理難題だったということに気付いていた。悔しさもあったろうが、やるだけのことはした、これ以上は自分には無理だったという達観も確かにあったと思う。いくつもの山や谷を越えて生きてきた人というものは、世の中で「えらい」人といわれなくても、そこにいるだけで存在感のある人間であるということ、まっとうに生きている人というのは、そばにいるだけで、涼しさとさわやかさを感じさせる存在なのだ、ということを母は知っていた。母の周りに、きっと、数少ないが、そういう人がいたのに違いない。母自身もまた、そういう存在でありたいと願っていたのだろう。

 大学院のころ、自分のやっている研究に自信が持てずにいた。これが研究などといえるものなのだろうか、とほとんど対人恐怖症でもあるかのように、蚕の中に自分を閉ざしていた。当時、本当に希少な数の人しか関心を持たなかった東南アジア研究などに迷い込み、どこに、何に向かって進んで行ったらいいのかもわからなかった。その時、私の指導教官ではない、隣の講座のある教授が、何を感じてか「なんでも一〇年はかかりますよ。一〇年は脇目を振らずにやってみることです。そうしたら、やってきたことの意味がわかりますよ」と、ほとんど笑いに近い表情で私に告げてくださった。
 この言葉は、その時の私にとってなくてはならない言葉だった。脇目を振らず、わがふりなど気にせずに、一度がむしゃらになってみろ、ということだったのだと思う。自分がやっていることが無意味でなかったと思えるまでに、それから三年もかからなかった。

 こんなにかけがえのない大切な言葉を私の心に奥深く残してくれたこの教授も、風の便りでは今は亡き人になられたという。

 逝く水はゆき落椿とどまれる

の句は、母が急逝したとき、すぐに脳裏に浮かんだ句だった。
 教授の言葉も、母の句も、冷たく流れ続ける川の水面に落ちた椿の、あとほんのしばしの時間、とどめ遺された鮮やかな色のようだ。

 草の絮のように軽やかに、山から吹く風のように涼やかに、そして、落ちてなお鮮やかな椿のように熱く生きられたらどんなに幸せなことだろう。