Translate

2008/10/30

文化的鎖国

オランダ人の夫と知り合ったばかりの頃、お互いの考えの擦れ違いを感じるたびに、私はよく「日本っていうのはね」「日本人っていうのはね」と、よくわかりもしないくせに、中根千枝の「タテ社会の構造」だの土居健郎の「甘えの構造」だの丸山真男の「日本の思想」だのを頭に思い浮かべながら、日本社会論や日本人論を並べて見せたものだった。
それは、そういう私に、ほどなく夫がこういうコメントをくれるまでつづいた。

「日本人っていうのは、どうして、そういう日本論だの日本人論が好きなんだい?オランダでは、だれも、オランダ人論やオランダ論なんてやらないよ」

目から鱗とはこのことだった。

日本人論、日本論に血眼になっている自分たち自身が、どれだけ自意識過剰になって、日本にこだわっているか、ということを、その時つくづく思い知った気がした。そして、以後、そういう類の本を読む気がしなくなった。自分の行動の言い訳をするのに、「日本人論」や「日本論」を持ち出してくるばかばかしさがよくわかった。自分は、日本人である前に、自分そのものではないか、という押しの強さこそが、オランダ人の夫に教えてもらったオランダの文化に発する考え方だった。

だから、「国家の品格」も「美しい日本」も、もういい加減でそういうレベルの話はやめようよ、といいたい。それが正直な気持ちだ。

気になることがある。かなり深刻に気になっている。

日本では、なぜか、世界中で、そしてそのためオランダでも翻訳されて売れているベストセラーが売れていない、知られてもいないことがよくあるのだ。

最近目立っていたのは、Carlos Ruiz Zafonが書いたThe Shadow of the WindとKhaled Hosseiniが書いたThe Kite Runnerだ。どちらもフィクションだが、それぞれ、スペインの独裁政権時代のバルセロナ、ソ連軍が侵攻してきた頃のアフガニスタンを舞台にしており、読者を食い入るように読ませる力のある文芸だ。人により好みはあろうが、私は、両方とも大いに楽しんで読んだし、世界中でベストセラー、ロングセラーになっただけのことはあると十分に納得できる。

前者は、この3,4年平積みになったままずっと売れ続けているし、後者は、映画化されたうえ、主人公になって登場したアフガニスタンの少年二人が、映画出演を理由に政治的な脅威にさらされ国外に移住を余儀なくされたことでも話題になった。話題の本だけあって、映画のほうも、大変注目されていたし、実際、それなりに、かなりよくできた映画だったと思う。

不思議なのは、なぜ、こんなにも世界で注目されている本が、日本では翻訳されないのか、ということだ。

ヨーロッパでは知らぬ人はいないというくらいよく知られたコミックシリーズに、「アステリックスとオべリックス」というのがある。下敷きは、ヨーロッパのエリートたちが、ラテン語を習う時に必ず読むガリア戦記だ。ガリア戦記のエピソードを、面白おかしく脚色しているので、もともとの古典を知っている大人なら、その面白さが言葉の端々に見られて楽しめる、ちょっとインテリ向けのコミックだ。パリ郊外にはテーマパークがあり、これも、何度か映画化されている。

なぜこんなに有名なコミックが、日本では知られていないのだろう、と少し探してみたら、20年くらい前に、シリーズのうちの1,2冊が試みに翻訳され出版された形跡があった。だが、どうやらあまり売れなかったらしい。

ヨーロッパ人の生活感覚と日本人のそれが違うからかもしれない。しかし、こんなことをいつまでも続けていれば、いつまでたっても両者の生活感覚、世界観は歩み寄ることはないだろうと思う。バックグラウンドが違うから、関心が違う、関心が違うから、訳したところで売れそうもない。出版社の立場から言えば、いくらベストセラーでも、売れそうにないものにカネはかけられない、という事情もあるのかもしれない。

そうなれば、日本人が孤立しないための、もはや唯一の方法は、日本語文化を抜け出すことしかない、と思う。歯がゆくとも悔しくとも、英語を第二言語にするくらいの覚悟がなければ、世界の人々が今何に注目し、何を話題にしているのかに日本人がついていくことは不可能だ。世界感覚でグローバルにモノを考えていきたいのならば、出版社が翻訳書を出してくれるまで指をくわえて待っているひまはないと思う。