Translate

2008/10/21

紅毛の空想

 娘の髪は赤い。赤毛というのは、西洋でも、段々に少なくなっているという。劣性遺伝で、父母の双方に赤毛の遺伝子がなければ、子どもに赤毛は出ない、、、
「アレッ」と思わず思う。
 だって、それなら、うちの娘の髪が赤いということは、私にその遺伝子があるということではないか、、、

 思い起こせば、私も、子どものころ、前髪の部分が赤っぽくて友達からよくそのことを指摘された。中学や高校の時にも、同級生から、「窓から射してくる光にあなたの髪の毛が赤く光っているわよ」と言われたことが何度かある。
 母も、どちらかというと赤っぽい髪の毛で、若いころは、自分の母親にさえ、「おまえは色が黒くて赤毛だねえ」と嫌みを言われていた、と言っていた。
 母方の祖父や伯父は、二重瞼の丸い目で、昔の人にしては上背の高い人たちだった。

 母の実家は、筑後川の河口近く、満潮になると海の水が逆流して川に流れ込む大川という田舎にある。筑後川が注ぎ込む有明海はその向こうに長崎、平戸、天草などを控えている。南蛮人が古くから住んだ地方だ。

 1600年に日本に上陸したオランダ人たちは、その後、徳川幕府の許可を得て、出島に住むようになった。しかし、出島での妻帯は許されず、オランダ人居留者のお相手に、遊女らが出島に出入りしていた。遊女らが身ごもらなかったはずがない。身ごもった女たちの子供らは、その後どうなったのだろう。
 明治になって、正式に国交が交わされ、水利管理の部門などで、オランダ人技術者が全国各地に入って、水利技術を伝えるようになった。母の実家のある大川にも、有名なデ・レイケが作った導流堤が残っている。当時の大川は、筑後川の水流を利用した船による物資運搬で栄えた。母の祖父、私の曽祖父は船大工だった。

 デ・レイケの来日当初は、だまし絵で有名なエッシャーの父親も、水利技術者として日本に滞在していた。彼にも、日本人の(内)妻と子供がおり、帰国時には、同伴できず後に遺していったことが伝えられている。

 そういう時代、オランダ人の父と日本人の母との間に生まれた、髪の毛の色が薄かったり赤かったりした子供たちは、その後の人生を、いったいどんな境遇で過ごしたのだろう。あいのこ、と差別されたのだろうか、それとも、そういう子供たちでも受け入れていく仕組みが世の中にあったのだろうか。
 昔は、家に後継ぎがなければ、養子がとられたものだ。身寄りがなくても、家が貧しくても、力があれば、もしかしたら、養子としてよその家を継承する身分になれた人もいたのかもしれない。

 私の中に、そういう子供の血がひょっとしたら流れているのだろうか、と空想を巡らしてみると、興味は尽きない。
 もしかしたら、私の中に流れているオランダ人の血が、どこかで、私をオランダから呼び寄せ、オランダ人に出会わせ、オランダに連れ戻してきたのではないのか、などと白昼夢のようなことを想像する。

 そういう私のオランダ人の夫の先祖はといえば、どうやら、1800年ごろまでは、オランダには暮らしていなかったらしい。「あなたは、あの、汗と血にまみれて波頭を超えてやってきたひげもじゃの南蛮紅毛人の末裔ね」と言ってみても、どうもその証拠になるものが見つかりそうもない。夫の姓は、ゲルマン系の名前で、ヨーロッパでもドイツ人かと思われがちだが、この姓は、今ではハンブルグの港の近くに多い。ひょっとすると、そのあたりから近い水域で勇躍していたバイキングの末裔なのかもしれない。

 夫も私も、どっちにしても、「漂流者(ドリフター)」の血を汲んでいることだけは確かなような気がする

 こういう話は、証明できないだけに、空想の面白さがあり、楽しく、興奮する。少なくとも、愛国者の純血神話を聞かされるのに比べたら、わたしは、ずっと面白いと思っている。