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2008/10/30

黒子の時代

ホクロの話ではない。クロコのことだ。

金融危機で揺れる世界。アメリカのウォール街で起こった今回の金融危機は、その後、アメリカでは、2党対立という形で完全に分極化した大統領選に絡んで、政治論争のレベルにもつれこみ対策が手間取ったのに比べて、ヨーロッパの対応は比較的迅速に進んだ。
むろん、ヨーロッパでも、当初は、各国の首相や大統領、各国の中央銀行の総裁たちの間の駆け引き、隣国の金融機関に対する不利な発言など、少なからぬ摩擦と緊張はあった。しかし、そこは、ヨーロッパ。これまでのヨーロッパ統合にまつわる様々の課題に解決策を求める議論でも、こういうことは始終経験してきたことだ。そして、なんとか、ヨーロッパの立場を絞り出してきた。まずは、国家としての利害をお互いに出し合い、それから、痛みを感じつつもそれらをすり合わせ、どこかに妥協点を見つけていく、というやり方は、すでに、ヨーロッパ連合の政治文化になっている。そういう、面倒だが、とにかく前向きに統合を進めるというやり方が、わずか半世紀の間に、紛争で多数の犠牲者を出したヨーロッパから、27カ国にも及ぶ多数の国が同じ規則のもとで、同じ議会で話し合い、解放された経済市場で取引をする関係になった。

多文化共生、多頭の共存は、ヨーロッパでは、いまや否定しがたい一つの文化だ。だからこそ、ヨーロッパ統合の実験は、未来の世界のあり方を考えるにあたって、競争市場型のアメリカよりもはるかに参考になる。

多文化共生という意味では、ヨーロッパよりも、アジアのほうがはるかにその多様性は大きい。これから、中国・インド・日本など、文化も政治体制も社会意識も、互いに非常に異なる国々が、アジアのブロックを形成していくうえで、ヨーロッパのモデルは大いに参考になるし、もしも成功裏に進めることができるならば、それは、ヨーロッパにおける統合よりも、もっと挑戦的で、成功すれば素晴らしい政治的実験になるのではないか、と思う。

ただし、アジアが内在的に持っていないのは、権威主義からの逸脱という意味での啓蒙の伝統だ。アジアでは、どの国も、いろいろな形で、伝統的で権威主義的な、ヨコの関係よりもタテの関係を重視するピラミッド型の社会をもっている。多文化共生の推進のためには、まず、それぞれの国で、権威的なタテ社会を打ち破り、すべての人間の平等や表現・良心の自由への確信を持つことが必要だ。そうでなくては、横並びの、多文化共生、多頭の共存という図式につながっていかない。仏教やヒンズー教など、唯一神ではない、多神教や汎神論的なアニミズム信仰が持っている寛容が、もしかすると、アジア的な多文化共生に道を開いていくのかもしれない、、、

それはともかく、、、
金融危機の議論沸騰が少し一段落した感のあった先週末、オランダの新聞紙上では、ヨーロッパを舞台に活躍する著名な政治リーダーや経済界のリーダーを招いて行われた討論会の様子がそのまま掲載されていた。

タブロイド版の新聞にぎっしり2ページ余りに及ぶ討論会だったが、その中である時、司会が「ところで、これからヨーロッパにおいて求められるリーダーの資質とは一体何なのでしょう?」と問いかけたのに対し、ある政治リーダーが「スクリーンの後ろで動ける人」と答え、これを受けて経済界のリーダーが「人と人を結びつける力を持つリーダー」というようなことを付け加えていたのがなにより印象に残った。

グロバリゼーションの時代は、カネカネカネの時代、欲望と権力の時代だった。アメリカ社会に代表される、立身出世型、一生懸命働いて、他人を押しのけてのしあがる能力のあるもの、そういう人がスターダムにのし上がり、カリスマとして大衆に影響を与える時代は、グロバリゼーションの終焉とともに次第に時代遅れになり姿を消していくのではないか、と思う。

これからの時代は「協働」の時代だ。自分の利点と相手の利点を出し合い補い合って、ソロプレーではできないことを、複数の人間の能力を提供し合って生み出していく時代であると思う。共同は、異文化間において、何よりも求められるだろう。

問題は、だからこそ、こちらの何者かとあちらの何者かを結びつける才能をもった黒子たちの暗躍なのだと思う。暗躍といえば聞こえが悪い、、、むしろ、名声を得なくても、スターダムにのし上がらなくとも、必要な人材とそれらの人材の持っている力を後ろから観察し、必要な形で結びつけていく才能を持った人こそが、今後どれだけ重要な役割を負うか、ということだ。

私が親しくしているオランダ人の教育専門家は、「良い教師は、できるだけ舞台の上に上がらない、人の表に立たない舞台演劇のディレクターのようなものだ」と言った。子どもの一人ひとりの能力を引き出し、お互いが学び合え、尊重し合えるようにし、それを通じて、複数の人の力によって何かを生み出す経験を子供たちにさせること、そのためには、教師自身が、権威ある存在として、子供たちを差し置いて前にしゃしゃり出ていくべきではない、といっているだ。

人と人とを結合させる力をもった影のリーダーということと、一脈通じるところが大いにあると思う。

実際、全体の動きが一番見えていて、人を掌の上で動かせるのは、だれからも振り返られることなく、それだけに、感情に振り回されずに、冷静に、かつ、理性的に物事を判断する時間と場を与えられた、スクリーンの後ろにいる黒子たちではないかと思う。

カリスマの時代は、カリスマ自身も、また、それを熱狂的に支えるひとびとの心にも、理性よりも感情が先立っていた。そういう社会は不気味で危険だ。

そして、これからの黒子には、異文化摩擦を超える力が何より必要であると思う。

願わくば、日本のマスメディアも、大衆と一緒になって目立ちたがりのカリスマだけに注目するのではなく、目立たぬところで賢い動きをしているたくさんの優れた黒子たちの動きをこそ見つめていてほしい。